本を片手に歩いていた。場所は閑散とした町の外れ。少年と二人、街灯もなくて暗い中、月明かりを頼りに歩くのは静かな夜道だった。
前を行くのは少年。数歩後ろを青年が歩く。青年は本に顔を落とし、足元を見ているかも怪しい。が、それによって歩調が狂う事はなく、躓くようなヘマもない。
………一体どのようにして周囲の状況を把握しているのか少年には謎だが、おかげで本など読むなというタイミングを逃してしまい、結果、空を眺めながら歩く少年と、本を眺めながら歩く青年の不可解な二人が成立した。
お互い、見たいものは別にある。けれど、見るわけにもいかないのはささやかな境界線の存在だろう。
それをそっと、お互いに確認しながら、小さく笑んで空を、あるいは本を見つめた。
そんな中、不意に少年はじっと、月を見上げたまま、少しだけ歩みが遅くなった。それに気付き、はてと青年は首を傾げる。
「……どーしたさ?」
何かあっただろうか。辺りに危険な気配はないが、少年はAKUMAを人一倍早く察する事が出来る左目を持っている。青年が気付かなくとも彼が確認する事は容易い。
僅かに声に固さを潜ませた青年の声に、はっと気付いた少年が慌てて彼に振り返り、苦笑して首を傾げた。
「いえ、あの…月が」
困ったように愛好を崩して笑むのは、少年の癖だった。何かを飲み込む時の、癖だ。
それに眼差しを柔らかくほころばせ、青年は本から顔を離し、ちらり空を見上げた。………そこにある欠けた月を眺めて、今日が何日かを脳内で検索し、月齢を引っ張り出す。
1秒も掛からないその作業に頷き、青年は眩い月明かりを眺めたまま囁くように答える。
「月?今日は十六夜さね」
「そうなんですか?………なんかすごく綺麗に光っていたから、見とれていました」
青年の言葉にまた空を見上げた少年は、溶けるように顔をほころばせて笑った。月齢とか、難しい事は少年には解らない。ただそこにあるものがどう映るか、それだけを知っていた。
見上げた月は美しく、見惚れる程に優しかった。
暗闇の中何に侵される事もなくそこにただ在り続け、星の流れも巡りも無関係に楚々とそこに存在する。………ほんの僅か、人の輪に混じる事に出来ない青年に似ていると、思ってしまった。
見上げた月。それが彼と自分の距離と解っていて、空の月と地上の自分の遠さに、思わず乱れた歩調を勘づかれたのは、自分の未熟さだ。
仕方なく飲み込んで隠したそれを笑みの中に沈めた少年は、また月を見上げた。
………さらさらと、まるで降り注ぐように少年の肌や髪を月明かりが染めていく。その様を愛しげに見遣りながら、青年はそっと視線を本に向けているふりをして口元を隠し、浮かんでしまう愛し気な笑みを気付かれないように落とした。
ほんの、一呼吸。その間に浮かんだ愛しさを呼気とともに沈めて、落とした睫毛で翡翠に浮かんでしまう揺らめきを隠し、そのまま頤を上げて月を見上げた。
美しい、月だ。真っ白い、けれど仄かに色を帯びて輝く。闇夜の中に黒衣を纏い佇む、真っ白な少年によく似た月。
「あー、ここらはあんま栄えてないからなぁ。だから逆に地上の光源なくて空がよく見えるさね」
のんびり本から顔を持ち上げた青年が辺りを見回して街灯すらない真っ暗さに肩を竦めながら教えた。その声はもっと明るければ本も読みやすい、なんて響きが隠されていて、青年の残念そうな溜め息に少年は少し呆れてしまう。
その街灯すらないくらい夜道を、彼はすたすた危なげもなく歩きながら、あまつさえ本まで読んでいるのだ。
いくらそうした性を持つ一族と言えど、こんな星明かりと月明かりに満たされた原始の道でくらい、その荘厳な美しさに溜め息を落とせばいいのに、残念ながら彼にはそんな情緒はないらしい。
それとも、ここにいるのが自分ではなく優しく可愛らしい少女であれば別だろうか。思い、少年はちくりと痛むものを飲み込んで窘めの言葉を紡いだ。
「ふふ、ラビ、そんなんじゃ、月に笑われますよ?」
「へ?」
仕方がない人だとくすりと笑えば、青年は予想外とでも言うように目を瞬かせ、間抜けな声を間抜けな顔で紡ぎ、きょとんと首を傾げた。
………月は笑わないだろう。何せ、月なのだから。何かの比喩とするにしても、今自分が言った言葉に笑われるような情報はない。あるとすれば隠し持った情くらいだが、それがバレたようにも思えず、青年には瞬いた眼差しに少年を映した。
そんな不思議そうな眼差しに、少年はとんっと青年の手にしていた本を指先で突いた。……顔を覗くように屈んだ少年の目は、とても楽しげに細められ、悪戯好きの子猫のように笑っている。
月明かりに浮かんだそれはどこか妖艶だ。………一瞬その愛らしさに息を飲み、次いでそれを霧散させるように本を引き寄せて目元から下、全部を隠すように顔に被せてしまう。
それを追いかける悪戯な指先はちょんと、まるで本などないかのように調度青年の鼻先の位置をもう一度突いた。小さく息を飲みながらもそれを隠し通した青年に、ふふ、とあどけなく笑って少年は身体を反らし、また一歩先を歩き始めた。
それを追う青年に、背中を向けたままの少年は囁く。……静かな、柔らかな月明かりの声。
「ラビは頭いいからつい説明する癖がありますけど、女性は雰囲気重視ですよ?」
「なんさ、それ?」
ますます繋がらない。訝しむ不思議そうな声に、ふふっと小さく吹き出しながら少年は振り返った。
……さらり、白い髪が舞い、月明かりが名残惜しげにその残像を煌めかせた。
真っ白な少年は微かな光源の中でも浮かび上がるように美しく輝く。それを溶けるように見つめそうで、青年は腹に力を込めて眼差しに色を含まぬように制する。随分、そんな仕草にも慣れてしまって、胸中で嘆息してしまった。
「月が綺麗と見とれた人への対応としては及第点はあげられません、って事ですね♪」
そんな見目の艶やかさとは裏腹の幼い物言いに、焦がれるものを押さえ込んでいる青年は一瞬、言葉を見失ってしまう。
……これはどう受け止めるべきか。
月に見とれていた少年を口説けばよかったか、あるいはひっそりと月を模した人に溺れている自分を告げればよかったか。……そんな馬鹿な考えが駆け巡る程度には、月光に染まるその姿は魅惑的だ。
が、解っている。そう胸中で溜め息を落とし、青年はただからかって遊んでいるだけの、暇を持て余した手持ち無沙汰な少年にブーイングを投げ掛けた。
「って、アレン点数辛口さ!」
「いいじゃないですか。ほら、行きますよ」
唇を尖らせて文句をのぼらせれば、少年は楽しげに青年に笑った。
宵闇の中、辺りは簡素な民家ばかりの、薄暗く月光ばかりが明るく輝く。そんな寂しいとも言える道中を、まだ高さの残る少年の優しい声が響く。
それを耳に染み込ませながら、吐息ほどに微かに溜め息を落とし、手にしていた本を畳んだ。
少し気になったからと歩いて読んでいた本。たいした意味などある筈もなく、ただこの静けさの中で二人歩み続けては伸ばしそうな指先を抑制する為だ。
「ったく…あー、でも」
そんなこちらの苦労など知る筈もない少年の鈍感さとて今更だ。……小さく苦笑して、ちらり月を見上げた。
こちらの思いなど気付きもしないし、気付かせるつもりもない。それでいい現実の中、それでも幻惑するかのように、月明かりの中で少年が舞うように歩を進める。
黒衣に染まる、真っ白な少年。決して交わる事のない黒と白。………そこに浮かぶ鮮やかな十六夜。
ずっと前を進み、空を見上げ、時折辺りに興味を引かれて迷いながら、それでも隣ではなく、少しだけ前を歩く。頑に、隣ではなく。………まるで伸ばされる腕を見越すかのように。
鈍い彼がそんな風に牽制する筈はない。解っているけれど、月ばかり見上げては進んでいた傍らの少年に焦がれて伸ばしかけた指先を、隠すように本に伸ばした。
いつからか繰り返されるそんな仕草の中、宿に着くまで続く筈だったそれが、今夜は途中で途切れ、月に魅せられた少年は今は自分を楽しげに見ていた。
「はい?」
微かな囁きにも気付いてくれる、それくらいの距離。意識が、こちらを見て……柔らかくほころんでいる。
僅かに首を傾げて問う少年の白い髪に、月明かりが滑った。白い髪に白い肌。染まりやすい癖に透明のまま、彼は銀灰に輝く眼差しに月を浮かべている。鮮やかな月を内包し、微笑んでいた。
「月が、やっとこっち見て笑ったさ」
にへらと笑い、青年は茶化すように戯けてみせた。
そわそわと空ばかり見上げていた細い少年の頤。そこから伸びる涼やかな細い首。それを眺めるのも楽しいけれど、触れる事が許されないなら少々酷な艶やかさだ。
……それが立場も省みずに抱え込んだ想いへの購いだと言われれば、確かに頷ける程に。
ようやっとそんな甘い罰から解放されて笑顔がこちらを振り向いたと笑う青年に、少年はぱちりと目を瞬かせたあと、朗らかに吹き出した。
「あははっ!ラビが見ないから月も見ないんですよ?」
すらりと伸びた指先が空を指差す。白い肌を照らす月明かり。
少年は淡く輝き、黒衣を身に纏いながら美しく澄んで浮かんでいた。まるでこの世にある唯一の具現物のように、辺り一帯の薄暗闇から浮き彫りに彼は佇む。
楽しげなその目元が柔らかくほころび細められ、銀灰に注がれる淡い月光が色濃く影を落とした。
「ちゃんと本だけでなく、空も見上げないと駄目ですね!」
弾む声とは裏腹の、濃密な色香にくらりとする。……月の神秘など足元にも寄せ付けない、清艶さ。
白を月色に輝かせ、それでもなお真っ白なまま、彼は歌うように笑い、踊る仕草でステップを踏んで先を行く。
ほう…と、気付かれないほど微かに吐息を漏らし、青年は苦笑した。
「……空じゃなくて、地上なんだけどね」
少年が見惚れた月も、今の自分には色褪せている。その輝き全てを纏い自分を誘いながらもそれを知らない、真昼の月が目の前に鎮座しているのだ。
焼きが回ったと言うには少々それはこの身に甘く、痛い。……せめて彼でなければ。自分達一族の業を突きつけ暴くような柵(しがらみ)ばかりを背負う彼でなければまだ、愚かと自身を嘲笑えただろうに。
こんなにもいとけなく、健気に生きる為に前を見据える命を前に、自分達のように醜悪な生き物、かしづく以外に取り繕いようもない。
そんな身勝手な物思いに鈍った足先が、少年と青年の距離を遠くさせる。一歩、二歩。知らずそれを数えて見つめていたなら、不意に少年は響かない足音に目を瞬かせて振り返った。
同時に重なった視線に、二人驚いたように目を丸めた。
「ラビ、置いていきますよ~?」
ふふっと嬉しげに笑った少年は明るく告げて、タッと大きく一歩を踏み出した。……振り返り様に楽しげに笑ったその目元が、淡く桜色を灯していてひどく愛らしい。
そんな場違いな意識を腹の底に押し込めて、悪戯を仕掛ける少年の笑みに、青年は受けて立つように唇を弧に変えて笑った。
「待つさ、アレーンっ!」
声に触発されるように少年は数歩を足早に駆けた。本気ではない、追い付く事を前提にした走り方だ。
「待ちませんから、急いでください♪」
「ホント、アレン手厳しいさっ」
明るい声に苦笑しながらぼやくように呟いて、頭の後ろで手を組んだ青年は、軽い足取りで駆け寄ってくる。
それを少年はまっすぐに前を見つめたまま、嬉しげに待っていた。
たかだか数歩。それでも急かせば付き合ってくれる優しい人。
早く隣に。月になどその眼差しを与えないで、自分の知らない色々な事を得意気に、たまにふざけながら綴ってほしい。
そんな馬鹿な願いを月に祈るなんてと、優しい光を投げ掛ける十六夜を微かに見上げ、少年は小さく微笑んだ。
馬鹿にして、せっついて、からかって。そんな風に少し囃し立てて茶化した中で彼が隣に戻ってきてくれればいい。そうでなくては、彼の指先を求めるように、その袖を摘んでしまいそうだ。……子供でもないのに一人が寂しい、なんて……彼が思い出させた、優しいぬくもりが悪いと思うけれど。
「……それくらいの防衛は許してほしいです」
微かに呟き、少年はじっと空を見上げた。望んではいけない事くら、解っている。彼の背中を見ていたら焦がれる眼差しがバレてしまうから、最近はいつも一歩、前に進む。
そうして青年が隣に戻るまでのほんの数秒。……ただ月が浮かび輝く空を見上げる。そうして自分自身に言い聞かせるようにそっと、心の中で呟いた。
………きっと彼はあの月のように美しい人を愛すだろう。
それこそ太陽のように輝く人に相応しい女性を。
そっと睫毛を伏せていつかの未来を静かに見遣る。
駆け寄った青年が笑う。そのあたたかさに仄かに微笑み、少年は白い吐息を落とした。
……それはまだ互いの思いを知らず月を見上げていた夜の話。

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