煙草を銜え、ぼんやりとしていた。のんびりと、と言い換えてもいいかもしれない。何せなにもする事がないのだから。
ただ身体の中にニコチンを溜め込み、二酸化炭素を循環させて鈍る意識の好きにさせている。………もっとも、不思議な事にどれ程煙草を吸っても集中力が途切れるとか動きが鈍る事はなかった。唯一あるのは睡眠障害だろうか。それとて、多分原因は別だけれど。
そんな事をつらつらと思いながら煙草を手放し、ぽすんと目の前の細い肩に額を乗せる。細い、と思いはするけれど、相応に筋肉もついた立派なものだが、自分と比較してしまえばやはり華奢だ。体格差があるのだから仕方がないし、口にすれば確実に拗ねるので言いはしないけれど。
肩は揺れない。跳ねる事も拒絶する事もなくそこにいて、それを確かめるように埋めた額を擦り寄るように蠢かした。
「〜〜〜〜っだぁ!あっついっつーの!」
ようやくそこまできて目の前の肩…もとい、時任が我慢の限界といわんばかりに叫んだ。
それでも横暴なその腕で懐く頭を剥ぎ取らないで叫ぶだけ。つまりは許容している。そう見取って、うっすらと微笑み、コツンとこめかみ同士を重ねあわせた。
「ん?そう?クーラーついてるんだけど?」
とくんとくん…静かに互いの音色が重なる。それを邪魔しないささやかさで嘯いてみれば、ムゥッと拗ねたように唇を尖らせた時任が肩を竦めるように首を窄めた。………うん、ちょっと体勢がキツい、かな?それでもめげずに重なったままのこめかみはじんわりと熱を灯していたけれど。
「クーラーついてても久保ちゃんがずっと張り付いてっから暑いんだよっ」
それは解るのか、ぷいっと顔を逸らしてむくれた声が乱暴に落ちた。怒っているよりは、照れ臭い、だろうか。あるいは、言葉にしない自分が何かまた沈んでいると思っているのかもしれない。
真っ直ぐな時任は思ったままに全てを晒す。言葉にも態度にも、歪む事もないまま教えてくれる。
そんな彼にとって、覆い隠しそっと沈め、晒す事無くただのらくらとたゆたうばかりの自分の態度は歯痒いのだろう。………これでも随分と彼に感化されたのか、感情が揺れる事も増えたのだけれど、多分、そんな事は無関係だ。
彼にとって、意味あるものは目の前の全て。過去でも未来でもなく、今ある自身を真っ向から睨み据え受け止める強さは眩いばかりだ。
そんな眩さが、自分に凍える事を教えた。……ぬくもりを教えたから、寒さを知った。優しいようでいて残酷な事実を見つめ、それでも甘やかなそのぬくもりを切望する指先こそが、自分の真実だろう。
思い、小さく唇が笑みを刻む。するり、腹に回していた腕を蠢かし、両手の指を絡め、囲うようにこの身全てで時任を包囲する。
「そ?……俺には調度いいんだけどねぇ」
寒さを知ったあの日から、ずっと。この体温を感じ取る事こそが適温。暑さも寒さもこの存在に左右される、相も変わらずどこか歪んで壊れた歪な感覚。
くつり、笑いかけて…………ふと、思い出す。あの夜の事を。
ふらりと出た夜の空の下、背後の警察署の明るい光を背負いながら闇に歩み出す自分の滑稽さがあまりにもらしすぎて、このまま闇の中に溶けるんじゃないか、なんてぼんやり思った。
………ろくな説明もしないで連絡もとれなくて、はたしてあの頑固な猫が自分を待ってくれているか、自信などある筈もなく、そもそも彼はあまりにも自由だ。囚われるものもない。
敢えて枷があるというならば、彼自身ではなく、彼に与えられたものだ。だからこそ、あの猫は己の意志で進んだなら、こんな淀んだ自分の隣ではなく清涼な澄んだ世界に咲く事が出来るだろう。
それを捕らえて離さず、共に薄闇の中に抱きかかえているのは、自分だ。
だからこそ、自分に愛想を尽かして消えていてもおかしくはない。ぼんやり思ったその思考を揺するように、足元にそっと光が灯った。
知っている、その光。真っ暗な自分の視野の中、ぼやける事も霞む事もなく鮮やかに浮かび上がる光。
「ーーーーーー帰るぞ」
光が、呟いた。呑気なくらい、いつも通りの声で。
じっとそれを見つめる。座り込んでいた光が立ち上がり、背中を晒した。相変わらず細くて華奢で小さい、けど、何よりも強靭で雄大な……優しい背中。
「腹減ったし。」
付け加えたような声。多分、それは本心でもなく、帰る為の言い訳、のように響いた。
………帰る。それは、自分の家だろうか。またこの猫は自分の元に舞い戻ってきたのだろうか。
ここにいる事さえ知らないと思っていた。知ったなら、彼の性格上、突撃くらい仕掛けるだろう。そうしたなら、警察とて彼を放っておく筈がない。調べられれば厄介だ。…………その素性だけでなく、彼の右腕の存在を知ったなら、警察が彼を手放す筈がない。
だから、上手く全て知らぬまま、保護されていると思っていた。自分が一緒に暮らしていた少年の存在を警察は把握していて、それでもそれを取引材料に出来なかったのはそういう事だと考えていた、のに。
彼はいた。まるで当たり前のように自分を待っていて、顔も見ずに当たり前に立ち上がり、帰るといって、前を歩いている。
「……………、うん」
答えながら、じっと彼を見つめた。
これは本物だろうか。自分が作り出した幻影といっても間違いはない気がした。……相変わらず、彼の周りだけは淡く輝くように暗闇から浮かんで自分には見えるのだ。
それに何より、彼は自分を呼ばなかった。いつだって開口一番、彼はこの名を呼んで招き寄せ、彼の興味を引いた全てを自分に教えてくれた。
けれど、目の前の背中は他愛無い事を形にするばかりで、自分を呼ばない。何も言わないまま連絡を絶った自分を怒鳴りもしない。……あまりにも、自分にとって好都合すぎる。
前を歩きながら、何か、彼はずっと話していた。それに頷き、相槌を落としては小さな背中を見つめていた。
隣ではなく数歩の距離を保ち続けたのは、傍らに並んで不意にそのぬくもりを求めた瞬間に掻き消える幻を恐れたからだろうか。………解らない、けれど。
それでもまだ、この甘い愚かさに浸って見つめていたかった。ずっと暗い場所にいた自分にとって、この輝きは手放し難い。ただ見ているだけでいいから、それを許されていたかった。
不意に浮かぶ紫煙が眼鏡越しにその背中を霞ませて、そっと煙草を外した。いっそ眼鏡という遮蔽物も外してしまいたいけれど、それで彼の背中がぼやける事は避けたくて、我慢した。
真冬の夜中。ぽつりぽつり二人声を落としながら進む人気のない暗い道。
………これでこの光が幻影なら、自分は独りぼんやり歩きながら幻覚に囚われたジャンキーとして、再び警察行きだろうか。罪状にもならないかと脳の片隅で思い、戯れ言じみた思考を放棄する。
不意に、彼が止まった。どうしたのだろうと、同じく足を止める。
ゆっくりと彼が空を見上げた。その背中を、自分はずっと見つめていた。
「−−−久保ちゃん、雪だ雪!!」
はしゃぐ声が、初めて自分の名を紡いだ。その瞬間、驚く程鮮やかに自分の身体に熱が灯った。
呼吸を、感じた。違う、鼓動を、感じた。脈打ち、必死に生きる証を教えるように込み上げる熱い熱。
空を見上げた背中が振り返ろうとしたその数瞬の間、いっそ滑稽な程必死に、僅かに開いたままの距離を詰めた。
彼が名を呼んだのだ。自分を呼んだ。……これは幻影でもなんでもなく、確かに自分がずっと探していたぬくもりだ。
足音もなく詰めた距離。振り返った彼の笑顔が、キョトンと、丸めた瞳に取って代わられた。………恐る恐る、けれど躊躇いもなく、その細い肩に額を乗せる。
温かかった。とくんと、聞こえる筈のない自分と同じ鼓動が響いた気がした。
「久保ちゃん?」
彼が、名を呼ぶ。その度毎に身体が熱を思い出す。………生きていた事を、思い出す。
「寒いのか?」
不思議そうな声で、けれどどこか知っていたような、そんな音が響く。それに身じろぎもせず、ただ深呼吸でもするように存在全てでその音をこの身に取り入れた。
寒かった、知らなかったけれど。自分はずっと独りで、誰かの世話になっても、一緒にいても、やっぱり独りきりで。それが当たり前で、孤独だとか、そんな大層な事を思った事もなかったのに。
………壊れる事、失う事が怖いと思った、そんな痛みの存在を手に入れて初めて、独りという事の意味を理解した気が、する。………今もまだ、きちんと感じ取る事も出来ない感覚だけれど。
それでも、寒かった。凍えていた。叫ぶ事も泣く事もないまま、ただ凍土の中、ゆっくりと氷漬けになる自分をぼんやり眺めていた。
気にも掛けなかった全ての冷たさを、このちっぽけな細い肩ひとつが与える、ささやかなぬくもりで教えてくれる。
「今気付いた」
「…………、なんだそりゃ……」
生まれてからずっと、寒さの中にいて、それが当たり前で、知らなかった。寒かった。凍えていた。………彼がいる今、その寒さを知った。
良かったのか悪かったのか、いつまで経っても決して答えなど出ないときっと人々は言う。弱味を手にするには、自分は奇怪で危険な、異端児だ。必ずこの腕に囲う存在を壊してしまう。解っていて、それでも手放せない、自分の光。
小さな彼の吐息の漏れる音。きっと雪の中、真っ白に染まって彩っている彼の呼気。
それがまた、音を紡ぐ。
「−−−−久保ちゃん」
自分が反応したものを、的確に彼は知ったらしい。理由もなく、名を呼んでくれる。
それが嬉しくて…けれどどうそれを表せばいいのかも解らず、今までと同じようにただ相槌を返す。
もっと呼んで、と強請るように、抱き締める代わりに肩に額を乗せたまま、身体から力を抜いた。そのせいで悪化した重みに彼が甘やかすように優しく重いと嘯く。
………重くていいと、許すように。
こんな厄介極まりない自分でいいのだと、告げるように。
彼は名を呼び、この胸の中こそが還る場所と、教えてくれた。
懐かしい……という程には過去ではないそれを思いながら、腕の中で顔を顰めたまま不機嫌な時任を見下ろした。
あれから思い出したように腕を伸ばし、彼を腕の中に収めてその肩に額を乗せた。初めは何事かと驚きを見せた彼も次第に慣れて……否、多分、勘づいて。自分の好きにさせるようになった。
おかげで元々堪え性などないというのに、甘やかしてくれる存在を知ったこの腕は躊躇いも忘れてその身を抱く。息ている彼を見出し、同じ鼓動が響く自分の胸を重ね、相変わらず不機嫌そうに、けれど大人しく腕におさまる彼を見下ろし、そっとその頸動脈に耳をそばだてて彼の命の音に耳を澄ませた。
甘やかしてくれるおかげで、随分と我が侭になった気がするし、欲張りにもなったかもしれない、などと他人事のようにぼんやり思い、不意に叔父の顔が浮かんで消えた。
お前が甘やかすから時坊は生意気なまんまなんだぞ、と。苦笑するように楽し気に、時任を同じように甘やかしながら言っていたその意味を、頷きながらも本当には解ってはいなかったけれど。
なんとなく、彼の言っていた言葉の意味を理解してきたと、くすり笑んだ。
「んーまあ、あれだね?」
暑くても寒くても、変わらず腕に抱き鼓動を確かめ、その身に自分の紫煙を纏わせ自分の熱を覚えさせている。
多分それは、とても原始的で動物的な行為だ。
「何だよ」
キョトンとする時任の声と眼差し。それを間近に見つめ、笑う。
「………ん?マーキング、かな?」
自分の傍らにいるべき存在なのだと、誰もに教えるように。………彼自身に、刻む為の、所有の証。あるいは、所有されている、証。
「なにそれ」
「秘密」
告げた言葉こそが解らないと訝しげに自分を見上げる時任の幼い顔ににっこりと微笑んで、はぐらかすように甘やかに嘯いた。
自分にも彼にも、互いの印だけを刻んで。
そうして、他の誰にも奪われないように腕の中、閉じ込めていられればいいのに。
………忠犬や番犬というよりも、それはいっそ我欲の強いただの獣。
手放せる時期なんて疾うに過去に遠ざかり、見返りもせずに踏み砕いて、危ういバランスの今を生きていた。
君とただ二人、寒さを知り、ぬくもりを感じて、生きていた。

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