暑い日差しの照りつける中、少し涼もうと立ち寄った関羽の家は、調度塾の片付けをしているところだった。
早い店じまいだと思ったが、こう暑くては身も入るまい。日が陰ってからの方がまだ頭も回る。それくらい、暑かった。
軽く声を掛け、慣れた仕草で歩を踏み入れる。それを仕方がなさそうに笑んで関羽は迎え入れ、張飛の座った椅子の前に汲み上げた水を置いた。
まだそれは冷たい…井戸の水だ。汲み置きではない事に感謝しながら張飛は一気にそれを呷った。………が、足りない。
「どうにも、こう暑いと敵わん。身体が疼いて暴れ回りたくなる」
荒々しくコップを机に戻し口を拭い、唸るように張飛がぼやく。そのコップに瓶の中の水を注ぎ、関羽は呆れたように眉を顰めて笑む。それをまた、張飛は一気に飲み下した。………やはり、足りなかった。
「まったく、程々にしろ。いくらお前が強くとも人の身体は不死ではないぞ」
また増えた身体の傷痕を微かに見咎め、けれどそれを諌める事の不可能さをよく知る声は、ただ窘めるに留まった。
そんな義兄の声に顔を顰め、むくれたように唇を引き締めて、張飛は微かに落とした目蓋の先で僅かな水滴を残すコップを見つめた。
「………解っている。俺とてこんなところで果てるつもりはないさ。あの方にまだ剣を返していない」
顔に増えた傷痕。それだけでなく、この身には数々の戦いの痕跡がある。
それでも生き残っている。己の強さ故だけではない。この腕に振るう剣が、哭くのだ。………どうしようもない程に、哭き喚くのだ。
ぎゅっと瞑られた眼差しの下、無骨な指先が知らず腰に帯びた剣の柄頭に触れる。
ひやりと、それはこの季節に見合わない冷感を指先に告げる。どれ程身を熱そうと、この剣に触れたなら意識が冴え渡る。その癖、身体はどうしようもない程に疼く。
「それでも、剣を振るう度、どうしても疼くんだ。この剣が哭く度、夏の盛りのように血が茹で上がる」
剣と共鳴するように、この国の憂いに咆哮する。自身が仕えるべき人はどこだと喉が嗄れる程に叫びたくなる。
この身を、命を、生涯を捧げるべき主君を。国を憂い、民を思い、己を殺し…ただ歴史の軋轢に噛み砕かれる命達を慰撫するように、荒む心に安寧を与えてくれる存在。
嘆きと憤りと憤懣に燃え尽きそうな人々の意志をまとめ、正しい道を示す、そんな存在を。
早く早くと身が焦がれる。それはどれ程井戸の冷水を飲んでも、清涼な滝に打たれてもおさまらない。渇くように燃え盛り、飢えている。
「お前は灼熱のようなものだからな」
そんな張飛の呻く声音に、同じ冷水を注いだコップを傾けながら、小さく、けれどよく響く太い音が空気を震わせる。
口をつけたコップにたゆたう井戸の水は透き通り、冷たい。こくり、関羽の喉が上下し、それを飲み下した。……身の奥底、張飛と同じく燻る熱が、ほんの僅か凪いで鎮まる。
静かな身の内の攻防を知らぬ張飛は、きょとんと目を丸め、義兄の呟く言葉の意味を考え倦ねて首を傾げた。
「?なんだ、それは」
暑いのは夏だからだ。灼熱の太陽が地を焼き、空気すら熱を持つ。そんな季節だからだ。だからこそ、自分だけが灼熱ではなく、目の前の関羽も、そこらにいる村人も、どこかの役人も、みんな暑い。
………身を焦がす程に、この歴史の狭間の中、熱に喘いで涼を求めている。
そう言葉を知らずとも告げる張飛の声に苦笑を灯し、関羽は微かに眼差しを柔らかく細め、長く垂れ下がる髭を撫でた。
「何もかも燃やし尽くす、という事だ。その真っ直ぐな潔さは素晴らしいが、猪突猛進となるといただけない」
「……どう違うのかよく解らん」
告げたあやふやな言葉に、やはりそれを読み取ったのだろう、張飛は顔を顰めて嫌そうに唇えを尖らせる。学問ですらない言葉でも、隠し躱される音はどうにも好まない彼らしい素直な反応だ。
解っていてはぐらかす自分も自分と独りごち、関羽はコクリ、また水を飲み下す。……まだ、時期尚早。その言葉に一体いつまで自分達は縛られ立ち上がれないのか。
早く……早く主が欲しい。主君と崇めるべき人を見出したい。嘆く剣の声に急かされるように、自分達もまた、その哭き声を奏でている。
「でも、どっちにしてもよ」
「うん?」
「俺が主と定め、仕える事を決めた人がいれば、それだけで全て変わるさ」
にっと笑い、その目はまるで子供のように輝きを持って語る。
ただ一度出会っただけの青年の話。その腰に帯びる剣の本当の持ち主。………剣が哭くのだと、心震わせ涙を浮かべ、打ち明けられた己が侍るべき存在との出会い。
腐敗を始めたこの時代の嘆きの産声のように、義に厚く忠に殉じる事の出来るこの男は、敏感にその声に溶けた。
そんな義弟が選んだ、主。愚直な程に曲がれないこの男が見出した存在ならば、おそらくは類い稀なる傑物だ。思い、いっそ子供の夢物語のように救世主が現れ全てが好転する事を信じて疑わぬ声に、そっと瞼を落とした。
「…………それも、そうかもしれんな」
頷き、そうあって欲しいと祈り、己の内の炎を見つめ……そっと凪ぐ風のようにささやかに押し込める。
「早く会いに行きてぇな。剣がずっと、恋しがって泣くんだよ」
きゅっと柄を握り締め、慰めるように鞘を撫でる。美しくも艶やかに、けれど類い稀な程に研ぎすまされた鋭利な剣。………確かなる一品は、その出自が卑しからぬ事を教えてくれる。
それを纏うに値すると、剣自身が認め求める時代の傑物。
「こいつが持つべき人の手に戻ったなら、何もかも変わるさ。俺達も、この国も、歴史さえな」
その人にさえ、再び見(まみ)えれば。………変わるだろう、この燃え尽きるがままにただ呼気を繰り返す日々も、再生の炎と変えて国を包み邪を祓う護摩となる。
「そうだとしたなら、その人は……」
きっと、優しくあたたかく………そうして、静かでありながらも炎を慰撫する清らかな冷水の流れを身に纏う人だ。
……否、水では足りない。こんな井戸の水では、自分達の渇きは存分には癒せない。渇き飢え、焼け焦げたようなこの魂に与えるのなら、いっそ氷塊を。
思い、なんと無茶な話だろうと関羽は微かに眉を顰めて不器用に笑んだ。
「あん?」
音の途絶えた間に、訝し気に眉を寄せた張飛が眼差しを揚げた。その生粋さに、苦笑が微笑みに変わった。
「いや、なんでもない。……冷酒でも持ってこよう」
「お、そうこなくっちゃな!」
「まったく、現金な奴だ」
呟き、歩を進め、見下ろしたのは変わらない義弟の無邪気な笑み。………その眼差しの中、確かに灯る忠義の色。
彼のいう人物に自分は会っていない。けれど、張飛が膝を折り、その頭を垂れ、あなたこそが仕えるべき人なのだと心震わせ祈る人がいる。
ならばそれは紛う事無き珠玉だろう。自分達が支え、咲き誇らせるべきこの国の華だ。
燃え盛る炎のように手のつけようもない剛直な張飛を、同じ炎を宿すが故に、自分は風のように凪いで宥め、その炎が厭うものと変わらぬように火の手を操る。が、主となる人はそれを収める術がなくてはいけない。
それはこの冷たい冷酒程に爽やかに…………けれど、そんなものでは足りないから。
真冬の雪のように。極寒の中、凍てつく水場の氷のように。
時に炎を慰めるように降り注ぎ、時に鎮圧するように容赦なく打ち据えて。細雪にも豪雪にも変化して、荒ぶる炎を抑制し、慰撫する。
そんな人が、実在するだろうか。思い、くつり、喉奥で自嘲気味に笑んだ。
いるのだ、それは確かな事実として。
煌めくように悲しみ泣く剣が、主を呼ぶのだから。
持て余す義を歯痒く睨み据えるのではなく、いと高き崇高なる意志のもと、ただ国の為に駆ける。
その日は確かにやってくる。
そうして自分もまた、頭を垂れる事だろう。
業火を慰撫する氷雪は恵みを呼ぶ慈雨と変わり、自分はそれをより広大な地へと導く風となる。
………そんな日を、今はまだただ二人、冷酒を傾け、いとけない夢のように語り明かした。

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