調度出会したリナリーとマリと歩いていると、二人は聞き捨てならない会話をし始めた。
それはとても何気なく、そして当然のような流れで始まった。
曰く、ジョニーの見送りにいけなくて残念だった、と言う、それが内容だった。
基本、科学班だけでなくエクソシスト以外の協力者に限って言えば、教団からの離脱は可能だ。が、その見送りや送別にエクソシストは同伴出来ない。何故ならそこから外部との接触を図ろうとしたり、何らかの形で教団内部の事情を外部に持ち去らせようとする可能性があるからだ。
つまり、教団側もよく理解しているという事だ。エクソシストがエクソシストである事を喜んではいない、その事実を。
それでも改善されない状況を敢えて考えようとはせず、神田は視線も向けないまま、マリと話すリナリーに問いかけた。
「どこ行った?」
素っ気ない問いかけに、リナリーは目を丸めた。怒る様子もないのは、そんな応対は当たり前だからだろう。マリも苦笑するだけで咎めない。……この教団の中で神田の態度に牙を剥く人間など今更いない。
否、いた。今はいないだけだ。思い、真っ白な影が脳裏をちらつき、神田は不機嫌そうに眉を顰めた。
「えっと、ジョニーのこと?」
コテンと首を傾げて問うリナリーの声に、ようやっと白い影が追いやられた。それにどこか安堵しながら、神田はそれでも治らない不機嫌な顔のままぼそりと低く声を這わせた。
「今日出るなんて聞いてねぇ」
当然の事実だが、それでもあちらから何かしらの打診を期待していた自分に呆れてしまう。そんな事が出来る監視体勢にある筈がないと、何を忘れていたのだろうか。
自身の失態に舌打ちをしながら、神田は苛立たしそうに髪をかきあげた。
………本当ならば、先回りをして待ち伏せるつもりだった。あの戦闘などまるで知らぬ虚弱な科学者が、自分が辿り着くまで無事でいるか、可能性は精々五分だろう。
無謀な真似をしてその貴重な五分を台無しにしていなければいいが、それも怪しい。えてして科学班の人間は妙なところで肝が座り暴走するのだ。
そんな神田の思考を逸らすように、リナリーは残念そうに眉を垂らして窓の先を見遣る。そこに件の科学者はもういない。出立して、暫くしてから自分達には知らされるだけだ。当日中に教えてもらえたのも、リナリーがジョニーと仲が良かった事と、彼女が室長の妹として科学班の職務の手伝いをしていた事への配慮からだ。もっとも、それでもこれは非公式だが、リナリーが知っている分には教団内部で咎めるものはいなかった。
窓の外はただ森が広がっていた。外部と完全遮断された教団からは、空と森しか見る事は出来ない。……今日は、晴れていた。とても綺麗な澄んだ青空が視界に映って、リナリーはそれを見上げるように歩調を緩めた。
「そうだよね。急だったし、さっきだよ」
その青さに魅入られながらリナリーは告げた。時間差はそんなにないらしい事を、その声の響きから神田は察した。
……同時に、自分が何を考えているかをこの二人がすでに知っている事も、理解した。
「……もやしを探しに行くんだな」
低く確認する神田の声に、マリは微かに眉を顰めて見せた。その珍しい仕草に気づき、神田が目を向ければ、彼はゆるり、首を振った。
「神田。滅多な事を口にすべきじゃない」
そうして囁かれたのは、僅かに厳しい咎めの言葉。
が、咎める言葉でありながら、その声は柔らかかった。諭すその音の真意を見据え、神田はちらとリナリーを見遣る。
……気丈な彼女は、窓から視線を戻し、神田ににっこりと笑って沈黙を守っていた。
そうして僅かに鋭くなった神田の眼差しに、マリの穏やかな声音が重なった。
「田舎に戻るジョニーが疑われる」
彼はその為に教団を離れた。それが科学班から上層部に報告された、離脱の事情だ。それを否定し、しかも現在ノアとして教団が追う元エクソシストの名を出すわけにはいかない。
ジョニーはただ、帰るだけだ。彼が本来ならばそこで暮らしAKUMAなどと関わる事なく人生を謳歌したであろう場所に。
そこに否定も疑いもあってはならない。それは、言外の諌めだ。……神田にではなく、周囲に対しての。
理解した神田は、くつりと笑んだ。彼の長い前髪が、風もなく揺れた。肩を揺らし、喉奥で彼が笑っているせいだ。
「………はっ、聖戦と持て囃す奴等が家族重視かよ」
そう告げながらマリを見遣る。が、二人の眼差しは交わる事はなかった。ただそれを眺める不躾な視線だけが、二人をその場に固定していた。
……その脆弱な糸を引き千切るように、神田の笑みに凄味が増す。
「くだらねぇ」
辺りの、自分達の言動に聞き耳を立てている存在達全てを嘲笑うように、青年は凄惨な笑みで吐き捨てた。
微かなノックに、青年は低く入室を促した。
誰であるかなど探るまでもない。このタイミングならば、確実に少女だ。解っていた青年は、まとめていた荷物を隠す素振りもなく手元に視線を落としている。
小さく開かれたドア。どれは少女ひとりが入り込むだけ開かれ、すぐに閉ざされる。………まるで密事でもあるような忍び込み方だ。もしも目撃者がいたなら、彼女の兄が殴り込みにでも来そうだった。
そんな事を考えている青年は、それでも荷物をまとめる手を止めはしなかった。また、入り込んだ少女に声も掛けはしなかった。ただ相手の好きにそこにいさせ、話したければ勝手に話せと、いつもの通りただ態度だけで許していた。
それを暫く眺めていた少女は、不意に問いかけた。
「……神田、行くの?」
それはただ確認するだけの声で、けして疑問ではなかった。その上、言葉の先にあるべき目的すら形とされはしなかった。
視線だけでそれを捕らえた青年は、そっと睫毛を落として素っ気なく呟く。
「別に。俺はアクマを斬るだけだ。なんの問題がある?」
教団に残る人間に面倒な手間をかけるつもりはない。自分が好きに動き、勝手に振る舞う事は珍しい話でもないのだ。
今更それを咎める事もないだろう。………今、この教団には戦闘タイプのエクソシストが不足しているのだ。
どれ程エクソシストをぞんざいに扱い、生け贄扱いをする輩でも、無下には出来ない状況だ。エクソシストがいなくなれば、自動的に自分達の命を守る術が無くなるのが現実なのだから。
そう嘲りを持って笑んだ青年を、小さな苦笑を浮かべた少女は、不意に寂しく笑んだ青年を見た。
「ありがとう、神田」
……そんな傲慢な呟きに返されるには場違いな返答が、透き通った音色のまま返された。
思わず青年は間抜けな顔で手を止め、少女に顔をむけた。
「はあ?」
その応対に少女は困ったように笑んで青年を見つめた。それを青年は視線を眇め、探るように見据える。……相変わらず容赦がないと思いながら、少女はそれにただ笑んでいた。
微かな沈黙が流れたあと、小さな呼気とともに再び少女が口を開いた。
「……ごめんね、言いたかったんだ、ずっと。だから、今の内に言おうと思って」
「…………」
「私、また任務があるから、うん、えっと、明日だったかな?だから、今言うんだよ?」
不審げに自分を見遣る青年に、少女はたいした意味はないと教えるように慌てて両手を振って口早に言う。
……けれど、焦ったようなその仕草が、彼女の言葉の真意を如実に伝えてしまっている。
そう思い見つめた先、美しい紫がかった彼女の大きな瞳に水滴が溢れ、ふわりと泣き笑うままに柔らかく微笑んだ。
「……バイバイ、神田。気をつけてね」
可憐な唇が健気な音色を紡ぐ。幾度か、それは聞いた事のある言葉だった。……いつだって少女が死を覚悟して人々の為に戦場に向かうその時に告げていた別れの言葉。
帰ってくると言う言葉の契りすら控え、粛々と遺す人に待たぬ事を願う声だ。
懐かしい、声だった。最近は聞かなくなっていたと言うのに、またこの少女は痛んでいる。悲しんでいる。自身の無力故に助けられなかったと、おそらくは本気で己を責めている。
「違うだろう、馬鹿」
だから、手放す覚悟もない癖に、自由を手にしてほしいと願い、涙を零すのだ。どこまでも誰かの為ばかりの癖に、当人には自覚がない辺り、これから自分が探しにいくつもりの白い少年に似通った頑なさだ。
思い、青年は泣くのを堪えて自分を見上げる少女の、形のいい額を軽やかに指先で弾いた。
その柔らかな痛みに少女は驚いて目を丸め、両手で自身の額を庇った。
……痛い。痛い、けれど。眼差しに映る青年の笑みがひどく柔らかくて、それに意識が奪われてしまった。
まるであの少年が方舟に向かった時のようだ。あまりに綺麗に笑うから、止める術すら自分にはなかった。少年は全てを見つめて、その中で自身に出来る最良を探しにいくと教えるように、微笑んでくれた。
彼はきっと、解っていただろう。自分が、今回の大規模な作戦の中で起こった数々の喪失と別れにダメージを受けていた事を。そして彼がいなくなる事でまたその痛みを増やし、立ち上がる気力を喪わせる事を。
だから、笑ってくれた。………笑って、また出会う事を約束するように、同じエクソシストである事を告げてくれた。諦めないでと、教えてくれた。
そうして今、青年もまた、笑った。彼に言えば立腹するかもしれないが、あの時の少年のように、今までからは考えられないほど、穏やかに。
「出掛ける時は『いってきます』だと言ったのはお前だろうが」
緩やかな声が……いつも何かを押し殺すように響いていたその声が、とても柔らかく囁く。
………いって『帰って』きます、そう祈りを込めた言葉なのだと、まだ教団に来たばかりの頃、彼に教えたのは自分だった。
だから任務に行く時はおまじないとして言ってほしいのだと、いつも無言で出掛け、血みどろの服装で帰ってくる彼に泣きながら言っていた。幾度も幾度も繰り返し、どれ程素っ気なくされても諦めもしないで繰り返した。
いつからか、青年はそれを受け入れた。少女の涙に折れたのではなく、この場所で生きる事を、受けいる事にした。
………ずっと、傷付く事は自分に与えられた罰だと思っていた。傷を負っても死ぬ事もなく、異常な早さで治ってしまうのだから、その痛みすら戒めにもなりはしなかったのだ。
けれど、自分以上に悲しみ傷つくものがいては無意味なのだと、わざと傷を負う戦闘スタイルを止めた。お人好しで、馬鹿で、向こう見ずで。誰かの為ばかりに生きてしまう、エクソシスト。この教団にいる、自分に関わってくる馬鹿なエクソシストは、そんな奴ばかりだった。
「間違えてんな。ブサイクになるだけじゃなく、ボケたか?」
揶揄するように青年は呟き、からかう笑みでもって唇を吊り上げる。
それに、彼女は目を丸めた。同時にまた、その瞳に水滴が溢れる。
…………きっと、彼女は自身によく似たあの少年を愛しただろう。家族を思い慈しむように、守ろうと決めていただろう。それを知りながらの自分の数々の黙秘は、彼女の祈りへの裏切りだっただろうか。
きっと、そんな事を言ったところで、この少女の涙を増やす以外の効果もないのだから、けして口にはしないけれど。
彼女が、自分を糾弾する筈がない事だけは、悲しい程に知っているのだ。
「な…な、に…よぉ、神田、本当に口悪いんだから……」
目を丸めたままの少女は、戦慄く唇で呟いた。子供のように、それはあどけなく響く。
それを見守り続けた大人達は、幼いエクソシストに優しかった。鬱陶しいばかりだったそれを、今なら理解出来る。………憐憫でも贖罪でもなく、彼らはただ、幼いままに戦いの場に身を置かなくてはいけない自分達を、愛したかったのだ。
愛し愛される事を少しでも知り、当たり前に味わうべき幸せを、多少の歪みはあれど、教団の中でも知って欲しかったのだ。
それを、今更知った。今更、思い知らされた。そんなもの、知る事もなく果てると思ったというのに、この荒んだ心はあの廃墟の中、随分と穏やかに世界を見る事を学んだ。
「少し、行ってくる。……それまでに不細工面、直しておくんだな」
「~~っ、いって、らっしゃい!」
望んでも返されない筈の言葉に、少女は眉を垂らして唇を震わせ、必死に声を張り上げた。
少しだけ驚いたように丸くなった青年の目に、かなりの大声だったらしい事に気付く。が、今更取り繕えない。
せめて情けない顔は見せまいと俯き、少女は胸の中で谺するいくつかの単語を形に変えた。
「ごめんね、ありがとう。……いってらっしゃい」
それだけで、精一杯だった。震えずに言葉が紡げそうになかった。
ぎゅうっと胸元で握り締めた手のひらがそれを教えるように力を込め過ぎて白く染まっている。
「ああ」
それを見つめ、低く……あるいは穏やかとさえ言えそうな青年の声が響いた。彼のそんな声は初めてだった。
耐えきれず、ぎゅっと瞑った眦から、ポロポロと零れた涙と嗚咽を、少女は吸い込む吐息で押さえ込む。
「…………お願い、アレンくんを、見つけて」
小さく、誰の耳にも届かぬよう、微かな呼気が呟く。
瞑られた筈の視野には、鮮やかにあの日の光景が浮かぶ。真っ白な少年は真っ白なまま、光に溶けて立ち去ってしまった。
自分はそれを捕まえられなかった。追い縋れなかった。……共に旅立つ事さえ、考えなかった。
そんな自分が今更それを願えるのか解らない。教団を好きだと言ってくれた優しい少年を、それでも傷付け追放したのは、紛れもなくその教団自身だ。
何も、自分は出来ない。エクソシストの自分には、自由などない。
ここ以外に帰る場所はなく、ただ一人裏切る事なく共に生きる兄がいる限り、解き放たれる夢想すら、出来ない。……もはやこの教団が、自分の世界全てなのだから。
それでも、と。震える唇がたゆまぬ声を紡いだ。
「ジョニーを、守って」
戦う事を知らない、優しい科学者。悲しい事には涙して、嬉しい事には笑い、人の心を慮り寄り添える、稀有な人。
ここを、今このタイミングで立ち去るならば、嫌疑を掛けられて当然だろう。それを躱す術を彼が持っているか、少女は知らない。
だから守ってほしかった。彼の進む先にあの少年がいるのならば。
……きっとたった一人だと、それはいけないのだと、当たり前で、けれど誰もが目を瞑る事実を見据えてくれた。
その事実を突き詰めてそこに向かう事は、困難の方が多いだろうに。返されるものなど、精々心くらいだろうに。
それでも、彼は進んでくれた。全てを賭けて、この教団から立ち去り、飛び立った白い鳥を探して傷の手当てをしてくれるだろう。
……自分には出来ないそれを、彼はしてくれるだろう。
思い、少女はゆるゆると睫毛を持ち上げ、歪む湖面の底の視野を瞬きで振り払い背をただすと、青年を見上げた。
「ごめん、私、ここから離れられないのに、卑怯な事ばっかりで。欲しがってばっかりで。……ごめんね」
本当ならば自分こそが青年のように駆け出し、優しい科学者や美しい白い鳥を守るべきだろう。泣くばかりで何一つ行動に移せない自分の浅ましさに、少女は悲しげに眉を歪めた。
………その不器用な淀みに、青年は呆れたように溜め息を落とした。
「うるさい」
馬鹿だ。自分を庇った少年も、追われるものになると解っていながら旅立つ科学者も。
それらを守れないと嘆く、この少女も。みんなみんな、馬鹿だ。
「お前らは何でもかんでも背負いすぎだ」
痛みばかりに敏感で、悲しみに引っ掻き傷をつけられながら、それても進む以外を知らない。
さっさと諦める事もなく。自己弁護もせず。ただただ相手の事ばかりの、馬鹿な生き物達。
不器用に誰かを愛し慈しむ事しか出来ない、生粋の命達。
……こんな泥沼の中、それでも咲き誇った愚かな蓮花達だ。
「我が儘に生きるのが人間だろ。今更、何後悔する気だ」
自分が好き勝手にしてきたように。……また好き勝手に舞い戻り走り出すように。悔やみが生きる証でも、それを背負うならせめて悲しみに連鎖しないものを望みたい。
それを我が儘など、誰が思うというのだろうか、この少女は。………言わせるつもりはない。見据える先がたとえ明るい未来でなくとも、歩むその間、残す足跡は誰にも否定などさせはしない。
生きて、いるのだ、足掻くように抗うように。懸命に、この最早一度限りであろう、命のままに。
真っ直ぐに言い切り見据える眼差しに、少女は少しだけ驚いたように目を瞬かせ、ついでふわりと戦慄く唇を必死に綻ばせながら、笑った。
「……うん…」
「また不細工が悪化するぞ」
小さく震えた返事に、呆れた溜め息で揶揄すれば、すんっと鼻を鳴らしたあとに、少女は青年を睨み付けて強い声を響かせた。
「うるさいよっ」
その綺羅やかな眼差しが力強く輝いた。……もう、泣く事は終わりと、その眼差しが告げている。
まだまだ成すべき事は多いのだ。差し詰めまずは、立ち去る青年の不在の言い訳だ。
泣き腫らした顔ではそんな事は出来ない。悔やみを増やさぬ為に、出来る事を探さなくては、勇気ある臆病者の男達に会わせる顔がない。
そういつもの勝ち気な眼差しで青年を見遣れば、彼はクツリと喉奥で楽し気に笑った。
「……それくらいで丁度いい」
さらり、思いの外優しい青年の指先が少女の髪を撫でた。それに導かれるように顔を見上げれば、不器用に笑んでいる青年がいた。
「じゃあな、リナ。『いってきます』」
……見た事のない、笑みだった。何かを悔やみながら、それでも求めて足掻く、その仕草は同じなのに。
彼の笑みはひどく透き通り、その容姿を儚く彩った。
少女は離れていく指先を見つめた。………ぎゅっと、唇を噛み締める。
泣きたいわけではない。彼はいなくなるわけではないのだ。
ただ、彼はやるべき事を見つけ、その先を見据えている。
「いって、らっしゃい、神田っ」
戦慄く唇で、それでも精一杯笑って少女は叫んだ。
後ろ姿の彼は、いつだかのように軽く片手を上げるだけの返事しかしなかった。
……ああ、そんなところは変わらないのだ。
思い、固く手のひらを握り締めた。
あるいは。
彼の見据える先は寂しいものかもしれない。
自分の願いは傲慢なだけかも知れない。
……それでも、祈らずにはいられない。
どうかどうか、世界が壊れませんように。
大切なみんなが笑顔で再会出来ますように。
それがどれ程難しい事かをよく知る少女は、ドアの先に消えた青年の懐かしい背中を思い、最後の涙を頬に滑らせた。
