ちりん、風鈴のような高めのベルの音が響いた。
お客様だと虎がカウンターの奥から顔を向けた先、見えたのは尻尾を振って満面の笑顔を浮かべる顔見知り。見事なブロンドの毛並みを靡かせた、それはカフェの焙煎士、ゴールデンレトリバーのキースだった。
「ワイルドくん、珈琲豆を届けにきたよ!」
そうしてその背に背負ったままのリュックに入っているのだろう荷物の存在を朗らかに宣言しながら、ドアをくぐってカウンターまで歩み寄ってくる。
「お、サンキュー」
それを見下ろしながら笑んだ虎徹は、縞の尻尾を揺らめかしながら手にしたポットに紅茶の茶葉を放り込んだ。今月のお勧めの、ミルクティによくあうウバだ。アントニオに頼んだメニューの出来は上々で、お勧めとして紹介した品は大抵売り上げが向上する。
流石は手作り雑貨屋のオーナーだ。………あの店とバッファローである彼の見かけのギャップに来店者が驚く程度には、彼の手先の器用さは称賛されるに値する。決して当人にはいわないけれど。
そんな事を思いながらポットに湯を注ぐと、カウンターまで辿り着いたキースがそのまま椅子に座ってリュックの中身を取り出した。
アントニオとは別の意味で器用な彼は、一流の焙煎士だ。家族のジョンと二人で豆の選定から焙煎までをこなしていたが、最近彼の元にはひとり弟子が加わった。このカフェから紹介した青年だが、どうやら上手くやれているらしく、たまにキースの代わりに豆を届けてくれる。
「ご苦労さん。出来はどうだ?」
どさんっと重そうな音とともにいくつかの袋がカウンターに並ぶ。いっそ無愛想とも言えるその袋の見かけとは裏腹に、袋を開けた瞬間の夢見心地にすらなれる香りのよさはキースの技術の高さ故だ。
彼の豆は一流のホテルに出されても引けを取らない。むしろ賞賛されるだろう。それがこんなささやかなカフェで、かなり破格の安さで提供されるのは、仕入れ値がそれに見合った価格だからだ。当然、そんな豆を格安で仕入れられるには訳があるが、それはそれ。客に問われても秘密とウインクひとつで虎はいつも躱している。
そんなキースの珈琲豆は、このカフェを支える大切な商品のひとつだ。勿論、一番の柱は豆も材料も全てを損なう事無く提供する、人懐っこいくせにあまり自身を語る事のないオーナーである虎の虎徹だが。
そんな虎に認められている大型犬は、ぱたり、尻尾を揺らして軽い声でひと吠え落とすと、大きく前足をあげながら朗らかなその声を店内に響かせた。
「完璧さ、そしてパーフェクトだよ!」
子供が無邪気に自分の作品を褒めるようにキースは屈託なく胸を反らして宣言した。……きっとそれに見合うだけの努力と自信を彼は有していて、言葉通りの商品に仕上げている。が、如何せん彼の仕草は犬という生来の本質にとても忠実で、微笑ましく頭を撫でてやりたい愛らしさの方が強く、匠としての威厳はあまりない。
ついいつもそう思ってしまい、それなりの歳の犬と解っている筈の虎は、お節介の世話焼きな性格のままカウンターに座る眼前の犬の頭をぐりぐりと肉球のついたその前足で撫でてしまった。
……若干、吠えられても文句は言えないかな、といつも思うが、特別キースも怒らない。犬は基本的にスキンシップが大好きで褒められる事も構われる事も好みこそすれ、厭わない。そこに救われている感はあるものの、とりあえずいつもの流れはそのままに、虎はまた特に悪びれる事もなく前足を引っ込めてポットにお湯を注いだ。
「はは、そりゃ楽しみだ。どうする、休んでいくか?」
時間があるなら、と言いながら虎徹はポットを横にスライドさせる。そして新しくトレーを取り出し、そのまま準備していたカップと空のポットにお湯を注ぎ温め、布巾の下に隠されているミルクジャーをひとつ、取り出して乗せた。
よどみなく無駄すらなく動く虎の様子を楽し気に目を輝かせて眺めながら、犬は大きく頷いて尻尾を振った。調度仕事は一区切りついていて、自分が配達に家を出る時、ジョン達には戻るまでの休憩を伝えてある。
それならもう少し、彼らにも自分にも頑張ったご褒美があってもいいだろう。そう考えてキースは尻尾を振った。
「そうさせてもらおうかな。……お隣、お邪魔するよ?」
既に隣に座って虎と話してはいたけれど、改めて客として居座る為、隣で静かに自分達を見守っていた顔見知りのウォンバットの斎藤に首を傾げながら断わりを入れると、とても小さな声で構わないよ、と返された。その声を拾う為に微かに蠢いたキースの垂れた耳がぱふんとまた同じ毛並みの中に舞い戻る。
それを見ていたわけではないだろうけれど、ほとんど同じ程のタイミングで背後から愛らしい少女の声が響いた。
「キースさん、いらっしゃいませ!お仕事平気なの?」
「パオリンくん、こんにちは!今は配達ついでの休憩中だよ」
明るい声に同じ程に明るく返された返事に、少女は楽しそうに目を細めて笑った。その瞳がキース越し、カウンターに並べられた珈琲豆の袋を映しとると、パッと輝くように笑顔を浮かべてはしゃぐような声が店内に響いた。
「わっ、珈琲豆きたんだね。タイガーさん、あとで僕が袋開けるよ、絶対だからね!」
たっとカウンターまで歩を進めた少女が、その細い腕では持つのも重い筈の珈琲豆をひょいと持ち上げてギュッと抱き締めながら幸せそうに奥へと運んでいく。
………少女が持っていかなくても自分が持っていくのだが、と少し困ったように情けない顔をした虎が尻尾をしゅんと垂らしながら仕方無しの溜め息を吐き出している。
それをきょとんと首を傾げて眺めているキースと、きひっと小さく笑って虎を見上げる斎藤とを視界の端に映しながら、虎は苦もなく歩く少女の声に苦笑を浮かべて答えた。
「解ってるって。ほんとお前、珈琲の袋開けるの好きだな〜」
「だって凄くいい香りがするんだ!あれだけで幸せなくらいだよ。……ちょっとお腹空いちゃうけど」
すぐに奥から顔を出した少女は少し照れ臭そうに頬を染めてお腹を押さえながら舌を出した。
………人の耳には解らないけれど、カウンターにいる虎と犬とウォンバットには解った。少女のお腹が、くぅと可愛らしく小さな鳴き声を上げたのだ。
そんな少女に満足そうに笑みを浮かべ、キースはこくこくと深く頷いた。珈琲は嗜好品だし、それが食事の代わりになるわけではない。が、それでも食欲を刺激し、その口に含む全ての旨味をより引き出し満足感を与える、そんな一助にはなれる。
「そう言ってもらえると嬉しいよ。ありがとう、そしてありがとう!」
ささやかではあるが嬉しい少女の言葉に犬はわふっとくすぐったそうな鳴き声をひとつ落とすと、前足両方をちょいと持ち上げて身振りまでもを加えて礼を言った。
「えへへ……あ、ねえ、注文はどうする?やっぱり珈琲?」
頬を掻きながらキースを見遣れば、すっかり注文を忘れていたのか、一瞬ハッとしたように犬の青い瞳が丸くなった。が、それはすぐにいつもの優しい笑みに変わり、こくり、首を落とすようにして頷いた。
「うん、是非頼むよ!」
私にもおかわりね。
「斎藤さん、多分それ、聞こえてねぇっすよ」
キースにあやかるように斎藤も告げたが、残念ながらその声はいつもの通り小さく、虎の耳にもささやかに響く。それに苦笑して呟けば、驚いたように少女が振り返った。
「え、何か言ってたの?」
「おかわりだってさ」
「そっか。二人ともブレンドでいいのかな?」
全然聞こえなかったと目を瞬かせながらも、少女はすぐに持ち前の前向きな笑みを浮かべると二人に問い掛ける。しっかりとその手にはオーダーを書き取る為のメモがたたずんでいる。
「任せるよ!」
それでよろしく。
そんな三人を眺めながら、虎は先程温めておいたポットのお湯を捨てると、その中に出来立ての紅茶を優しく注ぎ込む。ふわり、その香りがカウンターに座る二匹の鼻先をくすぐった。
ゴールデンドロップといわれる最後の一滴までもをポットに注ぎ終えると、虎はカップを温めていたお湯も捨ててザッと拭き取り、トレーに乗せたままカウンター越しに少女へと差し出した。
「じゃあブレンド二つな。……パオリン、この紅茶、よろしくな。あとあっちの客にオーダーの声かけしてやってくれるか?メニューもう置いちまってる」
さりげなく虎の動体視力をフル活用して店内を見て回っている金の眼差しが柔和に細められて、軽やかなウインクとともに少女に接客を頼んだ。
本当は少しくらいのんびりとしていても、このカフェにおいては問題はない。何故なら、存外この動物専用のカウンターを眺める事を楽しんでいる客もいるからだ。だからこそ呑気な声で告げる虎の声は窘めなどを含む事もなく少女に届く。
「あ、本当だ!いってきまっす」
くるっと首を巡らせて虎の言うテーブルを確認しつつ、少女は危う気ないバランス感覚でポット入りの紅茶を乗せたトレーを片手で支えたまま軽快に進んでいく。
……その姿を眺めるのはカウンターにいる動物の特権だろうか。そんな事を思いながらお湯を沸かし始めると、同じ事を思ったのか、犬がくふんと鼻を鳴らして店内を見回していた。……彼の尻尾は落ち着きなくパタパタと揺れていて、いつも彼の見つめる先には幸いが降り注いでいるかのように楽し気だった。
「このカフェはのんびり出来ていいね。飲み物も食べ物もおいしいし……いいなぁ」
そうだね。私もお気に入りだよ。
そんなキースのひとり言のようなしみじみとした声にウォンバットも頷いた。なかなか自分達が長居出来る店は少ないし、好む味に微調整をしてくれるカフェなど見つからないだろう。そういった意味でなくとも、ここは動物にも人にも優しく、その垣根がない。
珍しい程に穏やかで、平等な場所だ。そう思い眺める店内はさざ波のように優しい声が交わされ合い、ささやかなBGMがひとりで訪れるものの耳を包み込んでくれる。テラス席から吹き込む風は優しい草と花々の香りを添えていて、まるで草原の中でお茶をしているような居心地だ。
そんな幸せそうな声と笑みにむず痒そうに口元をふにゃりと歪めて照れている事を隠すように俯き、珈琲を淹れる準備に集中している振りをする虎が、パタパタと無意識に揺れる縞の尻尾に気付きもしないで軽く混ぜっ返すように二人に返した。
「てか珈琲はお前のところのだし、メニューも斎藤さん案出してるじゃないっすか」
何も全部を1人でやっているわけではないのだ。パオリンも給仕をしてくれるし、飾り付けなどは当然やってくれる。フードメニューは意外と味に煩いウォンバットが手伝ってくれるし、珈琲に関してはそれこそ専門家の犬が熱く語って割り込んでくる。紅茶に関しては独学だったが、最近住み込み始めた長毛兎が舌が肥えていて色々と手ほどきをしてくれた。溜め息と嫌味を添えながら、それでも丁寧に虎が理解して獲得するまで根気づよく付き合ってくれたのだから、あれはあれできっとお人好しの部類だろうと虎は喉奥で笑う。
店内の小物は昔馴染みのバッファローお手製のものが多いし、意外とこのカフェは色々な命が寄り集まって支えてくれたからこそ出来上がっている場所だ。
「そういえばそうだね」
そうだったよ。
そう告げてみれば、唐突にキースの青い瞳がキラキラと輝いて、前足でペシペシとカウンターを叩き始めた。同じ速度で尻尾も揺れていて、彼が随分と興奮気味らしい事を教えてくれる。
「あ、それならこんなのはどうかな、私がカフェのオーナーになるんだよ!」
どんなカフェのだい?
また面白そうな話しだと興味深気にウォンバットが続きを促せば、口元に前足を持ってきた犬は、キラリ、真剣な眼差しを讃えてゆっくりと悩むような素振りで呟いた。
「そうだね……その名も『スカイハイカフェ』!どうだろうか!」
そうしていわれた明るい声に、虎が呆れたような顔で肩を竦めた。
「なんだその青空レストランみたいな名前は」
「その通り!青空がコンセプトのカフェだよ。ふわふわした雲のようなソファーに座ってのんびりするんだ。たまに私が空から給仕に行ったりオーダーを聞いたりして」
空、飛ぶの?
犬だよね?と本気で問い掛けるウォンバットのボケに苦笑しながら、虎はちょいっと犬の額を爪を隠したままの指先で小突いて彼の言葉を補完した。
「こいつ今、ジェットパックつけて空飛ぶ夢見たってはしゃいでんすよ」
二日連続で見た時はそれこそ散歩に行く直前の子犬のように店内を駆け回るのではないかと危惧する程に興奮して、必死に喋っていた事を思い出す。
………今思えば開店前でよかった。開店していたなら椅子もテーブルも、ついでにお客様は入れたか解らないにしても、パオリンはキースを避けようとして転びそうだ。もっとも、運動神経が飛び抜けていい彼女がキースを避けられないかどうかは疑問の余地があるが。
しかしそんな虎の過去の日の憂いなどどこ吹く風で犬は脳裏に描かれている楽しいカフェの姿に満面の笑みだった。
「いいかい、スカイハイカフェではね、本格アフタヌーン珈琲を出すんだよ!イギリス人もびっくりなね!」
「もう既に俺らが驚いたよ」
名称を間違えているのではなく、意図的に変化させたそれに、虎は思わず珈琲カップに注いだお湯を溢れさせそうになった。
アフタヌーンティーじゃないの?
「だって私は焙煎士だよ?珈琲の方が精通している。得意分野で勝負しなくては」
ウォンバットの不思議そうな問いかけに、同じくらい不思議そうな顔をして首を傾げた犬は、目を瞬かせながら告げた。……あっているような間違っているよな、そもそものラインは一体なんだったのか、一瞬全てが交錯してしまうような主張だ。
「いや、なら何も紅茶の王道に真っ向勝負しかけなくても……」
「だって美味しいじゃないか、ケーキもスコーンもサンドイッチも」
美味しいものが食べられて美味しいものが飲めて、素敵な空間がある、それがカフェだ。そう胸を張って言い切ってくれるキースは、おそらくはこのカフェがそうだから、という前提で話している。
つまりは前提としてカフェの定義が違うのか。そう虎は納得し、しゅっしゅと湯気を零し沸騰し始めたケトルを取り上げてコーヒーポッドに移していく。
美味しい珈琲を淹れるには沸騰したお湯ではなく一拍置いた熱湯の方が好ましいし、ドリップ式で注ぐからには専用ポッドを使わなくてはいけない。この二点をクリアする為にはこればかりは欠かせない手間だ。
そんな揺れる湯気を眼鏡の奥の細い瞳を尚更細めてウォンバットが楽し気に最後の一口分が残ったカップを抱えて呟いた。
なら、こんなカフェはどうかな。
「え、斎藤さんまで?どうしたんすか」
「聞きたい!是非聞かせてくれたまえ!」
………やはり相当に小さな声だったが、虎と犬には無関係だ。驚いたような虎と目を輝かせる犬の眼差しを受けながら、ウォンバットはこくりと最後の一口を飲み下し、カップを両手で包みながら夢見るように中空を眺めて語り出した。
そうだね…名前は『フェアリーカフェ』なんてどうかな。
「随分ドリーミーな名前っすね」
「可愛らしい!素敵な名前だね!」
このカフェでは切り株が椅子やテーブルなんだよ。そして時折妖精達がやって来て、その切り株の上でダンスを……
「ストップ!それあっちゃ駄目じゃないっすか!行方不明者出ますよ?!」
段々とその言葉に嫌な予感を覚えた虎が待ったをかけた。ついでに前足も差し出して物理的にも犬とウォンバットの間に割り込む。
妖精が切り株の上でダンスを踊る……詳しい事は忘れたが、確かその妖精と目が合うと妖精と人間が入れ替わり、人間はダンスの輪に吸い込まれて妖精が自由になるとか、そんなオチだった筈だ。
何故いきなりそんな話を持ち出したのかと胡乱な眼差しをウォンバットに向ければ、いつも理知的なその眼差しが、いつもと変わらない冷静さで不思議そうに首を傾げて虎に答えてくれた。
でも妖精は遊びたいだけだよ。
「そういう問題じゃないっす。ってか、本気で呼べるんすか?!」
…………出来れば聞きたくなかった解答だ。ギョッとして思わず突っ込んだ声に店内の視線が向けられたが、いつもの戯れ合いと判じられたのか、微笑ましそうにみんな笑っていた。多分、とても幸運な事に、だろうか。
少しぐったりとした思考でそう考えて、どうにも考えの読めないウォンバットに情けない顔を向けた虎の耳には楽しそうに弾んだ世間知らずの犬の声が明るく突き刺さった。
「それは凄い!是非見たいね!」
「見んな!」
色々危険なんだよっといって果たしてこの犬に伝わるのか。むしろフェアリーと友達になったと言って連れてきてしまいそうだ。あ、まずい、このカフェがフェアリーカフェにされちまう、なんて間抜けな事を思わず本気で考えてしまった。
「ねえねえ、じゃあさ、こんなカフェは?」
そんな虎の空想を打ち切るように、少女の明るい声が割って入ってきた。
「お、パオリン、オーダーは?」
これ幸いとその声に飛びついた虎に、少女は頷きながらオーダーを口ずさむ。
「カフェラテと日替わりケーキでお願いします。……でね、僕の考えるカフェはサンダーカフェなんだ!」
そうしてまるで初めから話を聞いていたかのように自然と入り込んだ少女の言葉に、きょとんと虎を始め、犬もウォンバットも目を瞬かせた。
「サンダー……って、え?雷様?」
一昔前のあの某有名アニメの恰好で給仕……いや、それは流石に別のコンセプト出そう考えを打ち払うように首を振る虎をよそに、ウォンバットは椅子をくるりと回転させて少女に顔を向けると問い掛けた。
雨空がコンセプトかな?
「それなら私のカフェに似ているね!」
ウォンバットの言葉に仲間だと両手を上げた犬の声に、ふるり、少女は首を振った。残念ながら会話は噛み合っていないらしい。……噛み合う筈もないとそんな姿をカウンター越しに眺めて虎は思った。
「違うよ?あのね、サンダーカフェはね、異種格闘技戦を間近で観戦が出来るんだ!カフェの中央にリングを置いて、時間毎に様々な格闘家がやってきて、それを観戦しながら紅茶や珈琲を楽しむっていうカフェなの!」
ぎゅっと握り拳を掲げて勇ましく告げる少女は、実は格闘家だ。しかも、かなりの手練である事を虎は知っている。今でこそ仕事中なので真っ白なワイシャツに黒のズボン、ギャルソンエプロンを身に纏いハキハキとした明るい声と笑顔でカフェに花を添えているが、普段着はトラックスーツである事が多い。これは出勤する彼女を毎日見ている虎だけが知っている事実だ。
「………そりゃまた、斬新なカフェだな………」
むしろ確かそんなちゃんこ屋があったのではないだろうか。あちらは相撲専門で、土俵があるだけだったか……微かな記憶を探るように思わず遠くを見つめる虎は、少しばかり憂愁を漂わせている。
何故だろうか。カフェの話をしている筈なのに、現実にカフェとなれそうなものがない気がする。
たった今とてもこんな話をしている中でも自分が手慣れた仕草で珈琲を淹れているとは思えない。それくらいカフェから掛け離れてきた気がする。が、多分誰ひとりとしてそんな事には気付いていないだろう。いい意味で、彼らはみんな前向きで我が道を突き進んでいくタイプだ。
「パオリンくんもカンフーで参加出来るね」
そんな虎の微かな憂いと仕方がなさそうな笑みなど素知らぬ犬は、明るい声で少女の言葉に頷いた。
彼女が格闘家である事は、同じく大会で顔を会わせた事があるらしい弟子のイワンから教えられたキースは知っている。なので少女に劣らぬ無邪気さで、今この場にイワンがいたなら必死になって止めに入っただろう提案をのたまった。
「勿論、僕も参加するよ!それから、イワンにも声かけて対戦したいんだ!イワン、強い癖になかなか手合わせしてくれないんだよね」
勿論男女の体格差が出始める年頃だ。大会とて異種格闘技であったとしても別個で行われる。当然、イワンと手合わせをした事は正式な大会ではなく、控え室や顔合わせをした時に少しだけで、実質試合をした事はない。
きっとワクワクするくらいの手応えを感じるだろうその試合を思うだけで腕が鳴る。
「イワンくんなら今豆の選定に勤しんでくれているよ。彼は熱心で勤勉家だね」
そんな彼女にうんうんと頷きながらキースはどこかずれた同意をしていた。それ話が違う、と虎とウォンバットは顔を見合わせたが、あまり意味はなさそうだ。
「ならやっぱりサンダーカフェだね!決まり!」
何をもって決まりと定めればいいのかは謎だが、それでも明るい少女の声を嬉しそうな笑顔と、パチンと重ねられた手のひらの弾む音を聞けば、そこはもう誰もが頷く以外の返事はなかった。
微笑ましそうに少女を見遣って頷く犬とウォンバットと同じく満足そうに頷いた虎は、さて、と手に持っていたコーヒーポットを置いてカウンターにいる三人に目を向けた。
「話がまとまったところでいいか?」
きゅっと布巾で珈琲カップを拭き取り、まずは端にいるキースに目を向けた。
「うん?何かな?」
首を傾げた犬の鼻先に、虎は淹れたての珈琲を差し出す。くん、と犬の鼻が無意識にその芳醇な香りを吸い込んでいた。
そうしてほころんだ笑みに満足げな笑みを浮かべた虎は、そのままキースの前に珈琲カップを置き、ついでもうひとつの珈琲カップにも同じく珈琲を注いでウォンバットに差し出した。
「ほれ、お前の珈琲。と、斎藤さんのおかわりね。おまけでクッキーも付けとくよ。あとパオリン、カフェラテと、今日の日替わりケーキ、白桃のタルト。セットでよろしくな」
流れるように差し出された珈琲。それにいつの間に準備していたのか、ミルクスチーマーでほんわかと泡立てられた牛乳が注がれたラテボールと、冷蔵庫から取り出されたお手製のタルトがトレーに載せられていて、そちらは少女に手渡された。
いつもの事ながら魔法のようだと目を丸めながらトレーを受け取った少女は、じっとそのタルトを見つめ、コクリ、喉を鳴らしてしまう。
「はーい!……ねえタイガーさん、これ、まだある?残ってくれるかな?」
出勤して、このタルトを見た時からずっと今日はこれを食べたい!と言っていた少女に、クッと虎は喉奥で笑って金の瞳を細めた。……それはひどく優しく揺らめいて笑んでいる。
「大丈夫だって。お前さんの休憩までは余裕だよ」
「やった!ずっと楽しみにしてたんだ〜」
嬉しそうに満面の笑みで答えた少女は、自分と同じくこのタルトを心待ちにしているお客様の元に向かうべく背を翻し歩いていく。
その背中を眺め、虎を見返し、差し出された珈琲カップを手にとったキースは、ほわり、蕩けるように嬉し気に笑った。
「うん、やっぱりここの珈琲は美味しいね。豆の良さを最大限に引き出してくれている。作り手として誇らしいよ」
クッキーもいけるね。これメニューにあるの?
初めて食べたとクッキーを頬張っているウォンバットにメニューを指差して虎が笑った。
「セットにしてありますよ。今度どうぞ」
いつも同じメニューを頼むので彼はあまりメニューを見ない。が、焼き菓子セットとして存在しているのは、実は昔からだ。
まだまだ知らないものもあるものだと楽し気にウォンバットが笑えば、その隣、犬も同じように目を細めて尻尾を揺らめかした。
「ふふ…やっぱり、なんだかんだいっても」
うん、そうかもしれないね。
二匹は顔を見合わせて、肝心の言葉は音にせずに笑い合う。
それにきょとんと虎は目を瞬かせて珈琲を淹れ終えたドリップを捨てている。
「うん?なんだよ」
珈琲もクッキーもいつも通りだぞ、と下唇を突き出して悩みながらもどこか見当違いな事を告げる虎に、戻ってきた少女が小さく吹き出した。
何かおかしな事があったかと目を丸めた間抜けな顔の虎に、違うよ、と少女は笑う。
「みんなのカフェ案も捨て難いけど、『たいがーカフェ』が一番いいねって事だよ。ね?」
にっこり、カウンターにいる二匹だけでなく、店内にいるみんなの言葉を代弁するような、満面の笑み。
それに頷き、ウォンバットは淹れたての珈琲に口を付ける。
そういう事だ。
「みんな帰る時はいつも笑顔だ。素敵な事だよ」
満足そうな二匹の声にきょとんと瞬いた虎の金の瞳。それが嬉しそうに細まり、照れ臭さを隠すように戯けて笑う。
ここは虎がオーナーの世にも珍しい、たいがーカフェ。
……………人も動物も分け隔てなく訪れて、誰もが笑顔を思い出す、そんなカフェ。
今日も長閑なカフェにはさざ波のように優しい声と降り注ぐ日差しのような笑顔が満ちていた。

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