朝の掃除を始める前から、ずっと園庭では人の声が響いていた。着替えを終えて今日の流れを確認して、そうして教員室から出てきた虎徹は、ぱっと顔を輝かせて満面の笑顔を浮かべてしまう。
それはもう我慢しようもなく滲み出てしまう、そんな心からの笑みだった。
「おいおいおいおい、なんだこりゃ!」
青空を背景に、虎徹が背後の二人に振り返った。こうしているととてもではないが、一クラスを任されている担任には見えない。
ふうと小さく溜め息を吐いて眼鏡を押し上げ、仕方がなさそうにバーナビーが虎徹に答えた。
「……なにもなにも……移動動物園でしょう」
昨日も今日の環境設定や一日の流れの確認はしたし、この日の為の計画立案は、それこそ一ヶ月も前から話し合った筈だ。今更何を言っているのかと、呆れたようにバーナビーが今度はこれ見よがしに溜め息を吐いた。
その素っ気ない態度に虎徹は目を丸め、次いでつまらなそうに唇を尖らせて顔を顰める。
「感動小さいな!もっと喜べよ!」
いつもは駆け回るだけの園庭に、今日は動物達が来ているのだ。これをはしゃがずに一体何にはしゃげというのか。
昨日の帰りの会でも目一杯子供達の期待を膨らませた。今日やって来た子供達の笑顔は、きっと何よりも輝くに違いない。
それを思えば顔がにやけそうだ。子供も好きだし、動物も好きだ。その両方が一緒に遊んでいるなんて、幸せ空間以外の何ものでもない。しかも、その中に自分も加わって一緒に遊び、楽しい記憶を分かち合える。こんな素晴らしい日に何故涼しい顔が出来るのか、虎徹には解らなかった。
「喜ぶも何も…担任が一番はしゃいでどうするんですか」
「はしゃぐだろ!子供達大喜びだろ、これは!」
びしっと動物達を指差して大声で言い切った虎徹の目こそ、輝いていた。多分、これからやってくる子供と同じか、それ以上に。
わくわくという効果音が聞こえそうなその様子のまま、虎徹はステップでも踏むようにリズミカルに動物達の囲いを回り始める。ここからだって一望出来る、さして大きくもないその囲いを、それは幸せそうに嬉しそうに眺めては、近付く動物達に声を掛けていた。
「………おじさんが一番嬉しそうよ」
呆れたような声を、けれど嬉しそうな眼差しでブルーローズが呟く。キラキラと目を輝かせて園庭に出来上がった即席の小動物の囲いの中、既に歩き回る動物達に心奪われている虎徹は子供と同じく無邪気だ。
それには同意見なのか、バーナビーも軽く息を吐き出しただけで虎徹を眺め、はしゃいでいる様子を邪魔はしなかった。
どうせ少しすれば子供達が来る。そうなれば嫌でもいつも通りにテンションの高い元気な虎徹先生に戻るのだから、それまでの時間くらい、一人はしゃいで遊んでいても問題はないだろう。
そんな二人の態度にこれではどちらが先輩か解らないと苦笑しながら、アントニオは囲いの中に入りたくてウズウズしている虎徹の背中を見守り、こっそりと二人に教えた。
「虎徹は昔っからこれ好きだからな」
これに限らず、春の遠足の動物園も、卒園遠足の水族館も。生き物がいる場所も遊び回れる広場も、大好きだ。子供達と一丸となって遊び倒して、帰りのバスの中で最後の子供を親の元に帰す頃には、すっかり眠くなってシートに埋まり、運転手のアントニオに起こされる事も珍しくない。
そんな零れ話を聞きながら、クスリとバーナビーとブルーローズの口元に笑みが咲く。あまりにも彼らしい話だ。
「あー……それではしゃぎ過ぎて1人で動き回って迷子になるタイプよね、おじさん」
「そのまま迷子の放送をしてもらいにいく事も考えず、泣きわめいて周囲の大人に助けてもらうタイプですね」
少しだけ声を大きくして、アントニオが虎徹には聞こえないように配慮した事を台無しにするように二人が呟く。きっちりと、はしゃぐその背中に聞こえるように。
しゃがんだりたったりとウロウロしていた虎徹の背中は、その声をちゃんと受け取ったらしく、ガウッと牙を向くような勢いで振り返って、ずかずかと大股でまた三人の元に戻ってきた。
「人の過去を透視してんな!ほら、ガキども来たぞ!行くぞ新人ども!」
そうしてまるでその話を聞いたかのようにぴたりと当ててきた二人に、バツの悪い顔をして大げさな手振りを披露しながらまた虎徹は背を向けた。
それを見遣り、バーナビーとブルーローズは一瞬だけ視線を交わらせた。
この反応。………確実に、自分達の言った事が図星だ。それを確認し合って、クスリとブルーローズが可憐な唇を楽しげな笑みに変えた。
「…………否定しないのね」
「事実という事ですね」
喚く虎徹に冷静な二人の声が返されてしまう。墓穴を掘ったらしい事に気付いて、虎徹の顔が真っ赤になった。
…………と同時に、ゴンッとコンッという音が、バーナビーとブルーローズのそれぞれの頭上で響いた。走り抜けた痛みに二人とも頭に手を置いて顔を顰め、その根源である虎徹を睨んだ。
「まあまあ落ち着け虎徹。こいつらまだガキなんだからっ」
余程恥ずかしかったのか涙目になりかけている虎徹を宥めにかかったアントニオの後ろ、若い二人が虎徹の視界から見切れながら喚いていた。
「教育的指導だっ」
それに返されたのはアントニオに押さえ込まれて暴れている虎徹の、古めかしい時代錯誤な言い訳だ。きちんと大人で男のバーナビーには強めに、まだ高校生で女の子のブルーローズには弱めにしている当たり、無意識であろうと彼らしかった。
そこまで解っていても、痛いものは痛い。それにまだ子供が来るまで時間がある筈だ。
もう少しくらい虎徹をいじって構ってもらったところで問題もないだろうと、何故かこんな時ばかりは絶妙なコンビネーションを見せる若手二人が、アントニオの影から僅かに見える虎徹に聞こえるように声を放った。
「体罰教師ですか」
「サイッテー!!」
叩かれた頭を抱えて抗議する二人は、いつものようによく解らない持論か、あるいは偉そうに生温い理想論を言い出すと思って虎徹を見遣った。……が、その視界に映ったのは、幼稚園教諭としては逞しい背中と、細い腰にきゅっと締められたエプロンの結び目だった。
「おー、みんなおはよう!今日は動物園が遊びにきてくれたぞー!!」
そうして明るく優しく響く低音が、嬉しそうに手を振る子供に笑顔を向けている事を教える。
100%こちらを気にしていない。まったく欠片程もこちらの声すら聞こえていない。見事なくらいの聴覚操作だ。
「…………………ガン無視…」
「…………………………………………」
「いや、ありゃもう、子供達しか目に入ってないだけだって。そう落ち込むな、二人とも」
ひっそりと肩を落として虎徹の背中を見送っている二人を、取り残されたアントニオが慰めた。なんだかんだ言っても結局は虎徹を慕っている二人は、その表現が不器用過ぎてからかったりいじめたりと、子供達と同じような拙さでしか表現してこない。
もっとも、そのおかげか、物の見事に虎徹には筒抜けで、だからこそなんだかんだと二人の世話を焼いて可愛がってもいる。その辺りまでは看破出来ていないあたりは、未だ二人の経験値の低さだ。
どちらにせよ二人とも懐に入れてもらっている。だから固まっていないでそろそろ子供達を出迎えて着替える手伝いにいかなくてはいけないだろうと、その肩を叩いて促した。
…………二人がそれが気付いたかどうかは謎だったけれど。
朝の会が終わると、クラス毎に順番で園庭の移動動物園にやってくる。今日は一日みんな外が気になって、中での活動になど気が入らないことだろう。それも仕方がないと虎徹は笑いながら、足下を歩いていくウズラを捕まえた。
そうして少し離れた場所で動物を眺めるばかりで触れずにいる子に目を向けると、ニカッと笑ってそちらに手を差し出した。
「ほ〜ら鳥さんだぞ!先生が羽押さえてるから、ほら、触ってみろって!」
虎徹の大きな手の中、まるっと太ったウズラは小さな兎のように丸まっていた。それを物珍しそうに見下ろした子供は、目を瞬かせてウズラを指差した。
「え、どこ触るの?触れるの?」
動物自体に触れた事がない、そんな子供も珍しくはない。コテンと首を傾げて悩む振りをして、虎徹は手首を少し動かしてウズラの背中を見せると、そこを顎先で示しながら教えた。
「んん〜?先生の手の間、鳥さんの背中だな。そこ、優しく撫でてやるんだ」
教えてやれば、びくびくしていた指先がそろりとウズラの背中を撫でた。初めは一瞬触れるだけで怯えて手を引っ込めて。ちらりとこちらを見遣る顔に笑顔を向けて頷いてやれば、今度は小さな手のひらでさらりと撫でてみる。
「………うわぁ…ふわふわしてる」
「だろ?強くは駄目だけど、優しく触ればホラ、鳥さんだって驚かない。お互いに嬉しいんだぞ」
キラキラと輝いたその眼差しに満足そうに虎徹が頷いて笑ってみれば、同じ笑顔を浮かべた子供はキョロキョロと辺りを見回して、ウズラよりもずっと小さな名も知らない鳥を指差した。
「うん。あ、あの小さいのなら、僕でも捕まえれるかな」
「驚かせちゃ駄目だぞ〜、あと、鳥さんの羽を包み込むみたいにして捕まえろよ」
「うん!」
好奇心旺盛な子供は、一度大丈夫だと思えば積極的だ。すぐに鳥を追いかけ始めた子供に、優しくだぞ〜と呑気に声を掛けながら虎徹はしゃがんでしびれ始めた足をほぐすように立ち上がる。
辺りを見回してみれば、随分子供達も動物に馴染んだようだった。まだおっかなびっくりという子供もいるが、その傍らには動物を捕まえようと果敢に挑む子供もいる。不思議な事に子供の交友関係というものはうまいバランスがとれるものだ。
そんな事を考えながら怪我やアクシデントがないか観察していると、ワタワタとした足音が響いた。
「先生、こっち、ちょっときてくれ」
「ん?どーしたよ?」
突然慌ててやってきたアントニオに、目を瞬かせて虎徹が顔を向ける。
今日は園バス運転主兼用務員の彼も移動動物園の見学だ。………万一動物が逃げ出した時の捕獲要員でもある。
大抵いつも少し遠くで眺めている彼が、わざわざふれあいの園区画にやってきた事に首を傾げるのは当然だ。
そんな虎徹に困ったように太い眉を垂れさせたアントニオは、どうしたものかと視線を彷徨わせた。
「ほら次、爬虫類のお披露目なんだが」
今回の移動動物園は園庭に囲いをした中に小動物を放ち、子供達が自由に動物と触れ合える区画と、普段は動物園でも触れる事が出来ない爬虫類等との、飼育員を伴ったふれあい区画に分かれている。
小動物の区画は匂いや体毛などで汚れやすく、新人達は顔を顰めていたので、そちらを今回は虎徹が担当していた。………というか、毎回どちらの区画も顔出しして思う存分楽しんでいた。
「ああ、バニーちゃん達が立ち会っているんじゃ………」
学年毎に交代していこうと決めていたが、どうかしたのかとすっかり子供と動物に熱中していた虎徹が首を巡らせた。
その視線の先、映った光景に、間抜けに目を丸めてしまう。
そこには女性の腕程の太さのある真っ白なヘビを首から垂らした飼育員と、それを前に顔を引き攣らせたブルーローズ、冷静な顔のまま微動たりともしないバーナビー、そしてそんな二人を前に不安そうにヘビと飼育員を見て引いてしまっている子供達だった。
「……………何してんだ、あいつら?」
ぼやくように零れた言葉には心がこもり過ぎていた。
それには同意したくなるアントニオも、なんとか心を奮い立たせて二人のフォローを試みる。
「いや、だからまあ……立ち会っているな」
そしてそれが故に凍り付いてしまっている。きっと二人とも子供達が動物に触れ合うのを見ていればいいと思っていたのだろう。まさか自分まで触る役になるとは夢にも思わなかったに違いない。
にこやかな飼育員はそんな大人達には慣れているのか、苦笑しているだけできちんと子供達にヘビの話をしてくれている。
「…………俺にはどっちも凍り付いてるように見えるんだが」
まったく全然、飼育員の話を聞いているようには見えない。子供が声を掛けているのすら聞こえているかが怪しいくらいだ。
そんな虎徹の声に否定する要素がなく、アントニオは困ったように頭を掻いていた。
「触れないみたいだな、どっちも」
まさか、まったく駄目だとは思わなかった。せめて保育計画立案時にその事を言ってくれれば、それなりに考慮も出来たし、飼育員達にも根回しが出来たというのに、二人ともそんな事は一切言わなかったのだ。当然平気だと考えて配置したというのに、これではまったく意味がない。
そうこう眺めている間に、ついに二人が動き出した。………と思ったら、お互いがお互いに何か指差し合って話し込んでいる。
そのジェスチャーと様子を眺めていれば、大体その内容は想像が出来た。それにアントニオは片手で目を覆い、空を仰ぎ見てしまう。
「押し付け合い始めた?!馬鹿か、あいつら?!」
「あ、虎徹!ほどほどにな?!」
慌てて駆け出した虎徹の背中に、アントニオの心配そうな声が響く。そんなものに構ってはいられなかったけれど、心優しい相手の声に、片手を振って応えて先を急いだ。
段々と押し付け合いが言い合いに変わってきてしまった二人の間に割り込むようにして、副担任のバーナビーを注意するように虎徹が入り込んだ。
「ほらどけって、バニーちゃん!ったく、蛇が驚いてんじゃねぇか」
ぐいっと押された方向は、しっかり子供がいない角度だ。身体をぐらつかせて後ろに足を移動させてもそれによって子供に危害を加える事がない。
しっかりそれだけは天然の計算で行っているのだろう虎徹に、微かに眉を顰めてバーナビーがずれた眼鏡を押し上げた。
「ちょっ、先生なんですか突然」
ここは自分達の担当だ。何故ふれあいの園にいる筈の虎徹がやって来たのか、解らない。
不満を前面に押し出したバーナビーの声に乗るように、虎徹を睨み上げるブルーローズが顔を顰めさせた。
「おじさん、今はふれあいの園の担当でしょう?!」
そしてつい、バーナビーとの言い合いに気が高ぶっていたせいで、虎徹の事を普段と同じ呼び名で読んでしまう。
子供達の前ではきちんと先生と呼ぶべきである事も忘れているその様子に、虎徹は軽く息を吐き出した。
すっかり彼らの後ろにいる子供達は戸惑いに顔を見合わせてしまって、生き物とのふれあいを楽しむといった雰囲気がなくなってしまっている。
軽く腰を折って一番近くにいる男の子の頭を撫でながら、虎徹はニッカリと歯を見せて笑うと、自分を見下ろすバーナビーに指先を突きつけながら悪戯っ子のように顎をしゃくってアントニオがいる方を示した。
「こっちが楽しそうだから交代!お前らあっちで鳥と兎の相手してこいよ」
「何を言っているんですか、こちらが僕らの担当と……」
突然何を言い出すのかと、視線を険しくしたバーナビーが叱るような声を発した。今日の保育計画は既に綿密に打ち合わせていたのだ。それをこんなあっさりと撤回されては、このあとの計画とて狂いが生じてしまう。そんな事では打ち立てた目標とて達成出来ない。
そうくどくどと続く筈だったバーナビーの言葉は、けれど続けるよりも前に虎徹の弾んだ明るい声に掻き消されてしまった。
「おっ♪すげ〜、こいつ冷たいぞ。ほら、触ってみないのか?」
飼育員がしっかりと首元を持ってヘビの腹を触れるようにとこちらに見せてくれている。もう何度か顔合わせをした事のある相手だ。こちらの意図も読み取ってくれたのか、先程までの苦笑を引っ込めて、人懐っこい優しい笑みを浮かべていた。
それに感謝するように笑いかけながら、虎徹は近くにいた気の強い男の子に誘いかけてみる。
「え、でも……バーナビー先生達が…」
いつもなら何にでも果敢に立ち向かおうとするその子は、珍しくも尻込みするようにこちらを伺うような眼差しで顎を引いて目線だけで見上げてきた。
虎徹は内心そんな様子に苦笑をしながら、その頭を撫で、きょとんと目を瞬かせて、ヘビを逆の手で撫でながら首を傾げてみせる。見ていなくたって触れる。それくらい怖くもないし危険でもないと教えるように。
「ヘビ触るなんて滅多に出来ないぞ〜?しかもこんな綺麗な白いヘビ!知ってるか?白いヘビはな、山の神様と一緒に住んでるんだぞ」
ニシシッと歯を見せて得意げに教える虎徹を、その男の子は目を輝かせながら見上げた。ヘビに、興味がない訳ではない。しかもこんな大きなヘビだ。今まで見た事がない。
これは乗ってくるかと思った矢先、別の子供の声が響いた。
「えー?嘘だぁ!」
その後ろ、もう一人の男の子が唇を尖らせて虎徹を見上げている。
今度はその子に顔を向け、人差し指を振りながら、解っていないと得意げに輝く眼差しを自信たっぷりな笑みとともに向けた。
そうして集まった子供達の注目を、そのまま白いヘビに向けるように身体を捻って手を差し伸べるようにしてヘビを示した。
「嘘なもんか!証拠にほら、見てみろよ、こいつの鱗。お日様に当たるとキラキラ光って虹色になるだろ?」
「うん。それが?」
「白いヘビはな、虹になって山から俺らの街の方までくるんだ。だから白いヘビの鱗は、こんな風に虹色になるんだよ。知らなかっただろ!」
もう既にこの子達は春の遠足で小さな山を登っている。その事を思い出させるようにして告げてみれば、ぱちぱちと瞬いた大きな瞳がうずうずと蠢いているのを教えた。
子供は好奇心の固まりだ。どんな臆病な子供だって、好奇心だけは無くせない。むしろ、好奇心が強いからこそ恐がりになる事だって多々あるものだ。
それならうまくそこを刺激すればいい。頭を使う事は苦手だけれど、自分が感じた事を告げる事は得意だ。何が気になるか、どんな事が知りたいか、幼かった頃、今だって解明出来ない沢山の事を子供に問いかけながら一緒に答えを探す。それが、子供が先に進む為の一歩めの布石になる事だってあるものだ。
「虹になるの?」
「神様のところに帰る時にな」
今も、そう。にっこりと笑って男の子に答え、虎徹はヘビを撫でた。きらきらと輝く真っ白な鱗を教えるように、優しく。
それを見上げた子供が、ぱっと顔を輝かせた。
これが怖いものではなく、とても綺麗で魅力的な、初めて見る生き物である事を認識した眼差し。それにホッとして虎徹は一歩後ろに退いた。
「凄いねっ」
「あ、本当に冷たいよ。これってさ、もしかして雨なのかな」
「雨?あ、そうか、水に濡れると冷たくなるから」
「虹って雨が降ると出るんだもんね。じゃあもしかしたらさ、このヘビさん、雨と一緒に遊ぶのかもね」
「虹と雨って仲良しだもん、きっと一緒に遊んでたんだよ」
きっかけさえ掴めばあとはもう大丈夫。子供は柔軟でしたたかだ。怖くないと解れば次々に手を伸ばしてそれぞれが想像の羽を広げて次々と物語が織りなされていく。それを聞くのも保育に携わるものの特権だ。
愛おしそうにそんな子供達を眺めている虎徹の傍ら、まだふれあいの園には向かっていなかったブルーローズがぼそりと子供には聞こえない小ささで呟いた。
「………………………嘘八百」
「本当にある伝承だよ。語り継がれたもんはな、嘘じゃねぇの!」
むすっと顔を顰めてしまっているブルーローズを行儀悪く指差しながら窘める虎徹を、険のある眼差しで睨み上げた。
ここは、任されていたのだ。自分とバーナビーが。まだ新人の副坦と、バイトでしかない学生の自分。それでも担任の虎徹がやってみるかと言ったから、頷いた、それなのに結局割り込まれてしまっては、自分達では二人でも一人前に足りないと言われたようなものだ。立つ瀬がなさ過ぎる。
「でも虹になんてならないじゃない」
吐き捨てるように言い切ってみれば、虎徹はニッと唇をあげた。柔らかく細められた瞳がひどく暖かみのある色を宿していて、まるで自分まで幼い子供になった気分に陥ってしまう。
それが悔しくて、ブルーローズはまた顔を顰めさせて逸らした。
「なるさ。信じてみてりゃぁな」
「…………?意味が解りません」
不可解そうに、こちらもまだふれあいの園には向かわなかったバーナビーが問いかける。どちらもどっち、動き出さなかったらしい。ふれあいの園の方ではどうやらスカイハイが一人、奮闘してくれているようだ。
あとで礼を言わなくてはと考えながら、まだまだ手のかかる新人とバイトに向き合った。
ちらりと、ふれあいの園と、今目の前にあるヘビに触れる事を恐れなくなった子供のどちらにも視線を向けたあと、そっぽを向いたままのブルーローズの頭を撫でながら虎徹は仕方がなさそうに囁いた。
「解るようになれば、お前らも命ってもんをもっと大きく見れるようになるさ」
「って、ちょっとおじさん、ヘビ触った手で触んないでっ」
ギャアッと叫ばなかっただけマシかと唇を歪めながら吹き出すのを堪えた虎徹は、そのまま後ずさるブルーローズの額を指先で弾きながらへの字にした唇で窘めた。
「アホ。こっちの手じゃ触ってねぇの!それと、子供の前でそれは止めろ」
「いひゃいわよっ」
そのままくいっと頬を軽く引っ張られたブルーローズが文句を言いながら虎徹の腕を叩いて抗議している。それを綺麗にスルーしながら、未だ傍らに立ったまま二人を眺めていたバーナビーが思案するような間を置いたあとに、虎徹に向き直った。
「………それ、とは?」
「あん?ああ、お前もだ、バニーちゃん。子供の前で生き物を嫌うな」
ついうっかり意識を向けるのを忘れていた副担任を見遣り、思い出したように虎徹はブルーロズを解放した指先をバーナビーの鼻先に突きつけた。
そのままスタスタと歩き始めてしまった背中を、まるで親を追うひな鳥のようにバーナビーが追いかける。それに続くように、片手で頬を包みながらブルーローズが少し小走りで追った。
それをきちんと知っている虎徹は、背中を向けたまま、まだ何も解らないままの現場に不慣れな二人に行き先を教えるようにゆっくりと言葉を落としていった。
「子供はな、別に初めから何かを嫌ったりしねぇんだよ。新しいもんに対しての漠然とした不安と、同じ量の好奇心だけ持ってんだ」
静かに、決して責める事はない優しい声。それを拾い上げ携えて、そうして追いかけていけばきっと笑顔が待ていると教えるような柔らかさ。
「その不安を煽んじゃなくて、好奇心を引き出せ。お前らが怖がったり嫌えば、それがそのまま子供達に移るんだぞ?」
たった数歩しか離れていないその距離を、けれど二人は遥か遠いものだと痛感する。
………普段がどんなにおちゃらけていていい加減に見えても、実際の現場で子供達に関わる中、誰よりも子供の育むものを慈しみ、伸ばそうとしているのは、虎徹だ。
その背中は広く逞しく、幾人もの子供を背負ってもきっと潰される事はない。どんな子供とて受け止め受け入れてくれる、そう信じさせる慈父の背中。
「忘れるなよ、お前らは一挙手一投足まで全部、子供達に見られてんだよ」
振り返り二人を見遣ったその顔は、逆光でうまく見えなかった。それでもきっと、ひどく優しく瞳を細め、その唇を笑みに溶かしている事だろう。
解るそれに答えられるものがない二人は、どんな解答を返せばいいのか解らず、ひどく難しい難問を前にした学生のように眉を顰めて目映そうにその姿を見つめた。
………逆光に、感謝したい。きっとどんな顔をしていたって、それはその背から零れる光が目映すぎるからだと、自分にも彼にも言い訳出来るのだから。
そうして言葉に迷っている間に辿り着いたふれあいの園の中、子供が一人、ひどく興奮した様子で虎徹に腕を掲げてみせた。
「こてつせんせー!ほらみて、捕まえたよ!」
得意げなその顔に、虎徹は嬉しそうに笑ってぐしゃぐしゃと頭を撫でてやった。それに破顔する子供の手の中、少しだけ鳥が羽ばたこうともがいている。
「お、すげぇじゃねぁか!っと、もっと力抜いて、柔らかくな。ほら、痛いって泣いちまってんぞ?」
「えっ?こ、こう?」
手の中で暴れ始めた鳥に、なおの事強く掴もうとしてしまう小さな手のひらを包むように虎徹の手が重なる。その手の中、子供の手から力が抜けて、ようやくホッとしたように鳥も身体から力を抜いた。
「そう、上手だ。仲良しになったら、また手を離して次のやつと仲良くなってくるんだぞ〜」
「うん!みんなと仲良しになるんだ!」
そっと地面に向かって虎徹が手を離してみせれば、それに倣うように子供も手を緩め、鳥は微かに羽ばたいて地面に足をおろすと、そそくさと逃げ出した。
それを手を振って見送った子供は、また次の鳥を探して鳥を追いかけ始めた。
ホッとしたように腕を組みながらそれを眺めている虎徹を、不可解そうに見つめるバーナビーとブルーローズの傍ら、アントニオがクスリと唇で笑ってどこか憧憬を滲ませている二人に声を掛けた。
「虎徹はうまいだろ、誘導すんのが」
「………全部の動物と仲良く、なんて、押しつけじゃないですか」
「そうよ。元々動物が嫌いな子だっているわ」
全部が全部、虎徹の言う通りな筈がない。教科書通りの解答なんて実際の現場にはないように、現場で培われる勘だけが全てをまかないきるものでもないのだ。
そうぼやく二人に、それでも、と、アントニオは囲いの中、あふれるような笑顔を浮かべた子供達を見遣った。
「でも、好きでもなく嫌いでもない子もいるさ。それに」
おっかなびっくり、誰かの手で招き入れてもらわなければ踏み出せない子。一歩踏み出せば、あんな笑顔を浮かべる事もある。
それに浮かぶ笑みは、本物だ。決して幼い命を意のままに操ろうとした訳ではなく、ただその子の中にあるものを引き出して、何を選ぶか自由に決めさせる、ただそれだけのこと。
「全部っていうのは、方言だろ。あんまり長く子供が掴んでちゃ、鳥の方が疲弊しちまう」
手を替え品を替え、言葉を操る事が苦手な虎徹でも、単純な言葉でそれとなく教えている。決して計算が出来る訳ではない癖に、不思議と選び導く答えは、相手にとって最良であれと祈った答えになっている。
「あいつのいう、大きく見るってのは、そういう事だ」
お人好しでおせっかい。人はきっとそう言うだろうけれど。………そんな人間こそが育むものを分かち合えれば、きっともっとずっと優しい世界が広がるだろうと、その声が呟いた。
それに眉を寄せ、戸惑うようにブルーローズがアントニオを見上げる。
「……………そういう?」
「わからねぇか?」
ちらり見遣ったバーナビーも、答える事なく眉を顰めてみせた。
言っている事は理解出来ても、そこから発展するものが見えない。そんな戸惑いを乗せた揺らめきの眼差しが、真っすぐに虎徹の背中を見つめていた。
それを見遣り、アントニオは苦笑とともに軽く息を吐いた。まだまだ教える事は数多くありそうな二人だ。その1つを、用務員で運転手でしかない自分が告げるのもおかしな話だと、破天荒な担任の背中を、アントニオも見遣った。
「人も、動物も、虫も。関わる環境にあるもの全部、愛してみればいいって事だよ」
本当にそれはささやかで当たり前で、誰もがそう教わり生きる筈の事、だ。
けれどそれが与えられる事なく、額面通りの言葉だけで終わらされる事が圧倒的に多い事とて、知っている。
寂しい事件や悲しい事件、それを見つめる度に泣きそうに画面を食い入るように見つめる虎徹をもう何年も見てきたアントニオにとって、その言葉の意味が、ただこの園の中でだけ終わるものではないと知っている。
それを知ってほしいのだと、太く優しい声が響いて、二人は微かに顎を引いて俯いた。
「そうすりゃ、子供達だって同じように何かを嫌ったり排除したりしないで、そのまんま、ありのまんま全部、受け入れられる土台が作れるだろ」
愛す事、愛される事、当たり前に循環するそれを与えられていれば、与え合っていれば、今起きる胸を掻きむしりたくなる事件達だって、ずっと減った事だろう。ただの予想であり、一蹴されるような妄想かもしれない。
それでも、きっとそうなのだと本気で信じて子供達を慈しむ馬鹿な男もいるのだと、その声が教えてくれた。
優しい声が、響いている。園庭の中、一番はしゃいだような担任の声。返される子供達の笑みと弾んだ明るい声。伸ばされる腕に返される腕。循環する、笑顔。
綺麗な、光景だ。移動動物園なんて面倒臭いし臭うし、エプロンも服も汚れてしまう。嫌だけれど園の行事だからと受け入れたのに、その中でこんな風に、計画にも打ち立てない事を祈って願って腕を差し伸べる馬鹿が、いるのか。
「そんな、の。…………おじさんみたいに能天気になれっていうの」
震えそうな唇を厭って、ブルーローズが噛み締めた唇で悔しげに呟いた。力無いそれに、アントニオが慰めるようにその頭を撫でる。
「それがあいつのスタイルだってだけさ。お前さんらはお前さんらのスタイルを見つけて貫きゃいい」
「あの人みたいないい加減な保育計画しか立てられない人にいわれたくもないです」
「ははっ、そりゃ確かに。でも、あいつは子供に愛されてるぜ」
すぐにでも反論するように答えたバーナビーに、虎徹と同じく明るく笑ったアントニオは、それはもっともと頷いた。過去に何故か相談を受けて保育計画を見させてもらったが、その勉強をしていない自分にもぐちゃぐちゃな起承転結っぷりだった。そもそも環境設定自体、想定されていない事がおかしい。
それでも、実際にそれを行えば、虎徹は何故かうまくまとめてしまう。
環境設定通りになどいく筈もない全てを、だからこそ固定したくないとぼやいていた事を思えば、書類という紙面に変える事が下手なだけなのだろうと思ったものだ。
「紙なんかじゃ計れねぇもんがあるんだよ。この世界に居着くつもりなら、しっかりあいつの事は覚えておくといい」
子供よりも子供臭くて、叱る時は誰よりも真剣で。泣く時は子供がいようと関係なしにボロボロと泣いてしまう、感情豊かな型破りな幼稚園教諭。
「あんな幼稚園教諭も、そうはいないからな」
豪快に笑うアントニオの声に、クスリとバーナビーが同意するように頷いた。
「そうそういられては困ります」
「フォローしなきゃいけないこっちの身にもなってほしいくらいよ」
ツンッとそっぽを向いて素っ気なく言ったブルーローズの足下に、さわりと何かが触れて、きょとんと彼女は目を瞬かした。子供達が近付いた様子はなかったのにと視線を落としてみれば、そこにいたのは兎だった。
「兎?!なんで?!」
驚いて覆わず懐いてきた片足を高く掲げて兎を避けて叫んだブルーローズの耳に、慌てた虎徹の声が響いた。
「うわっ、と、バニーちゃん、ブルーローズ、捕まえてくれっ」
ブルーローズの声と虎徹の声と、どちらもがほとんど同時で、一体何事かとバーナビーが目を瞬かせてそのどちらもを見遣った。
彼女はアントニオにしがみつくようにしてやってきた兎や鳥を回避するようにぴょんぴょん跳ねている。………むしろ彼女の方が兎のようだ
そうして見遣った虎徹の方はというと………。
「え?って、何やっているんですか、おじさん!!!!」
虎徹がいる場所の柵が、壊れている。そうそう倒れる筈もない、きちんと埋め込まれた支柱が何故か倒れているのだ。
それを確認したブルーローズが、悲鳴のように叫んだ。
「信じらんない、柵壊したの?!」
「いいから捕まえろ!怪我させんなよ!怖がんのも禁止!」
虎徹の後ろで怯える子供がいるのを見遣ったアントニオにだけ、事の次第を何となく予想出来、さらに騒いでしまいそうなブルーローズの声をそっと押さえて、足下の兎と鳥を一匹ずつ、捕まえて腕に抱えた。
それにホッとした虎徹の眼差しに頷く事で答え、ひとまずブルールーズが足下の鳥をどうにか出来るよう、声を掛けていく。
その間、こちらの惨事は二人に任せる事にしたらしいバーナビーが、子供と動物を抱えて立ち往生している虎徹の元に駆け寄った。
「無茶言わないで下さい、ああもう、まずは柵、直して下さい!」
両手が塞がれ、足で動物が出て行かないように押さえている虎徹に叱るように怒鳴って、バーナビーは周囲の先の様子を観察した。どこを直せばいいのか、どう行うべきか。一通りを試算して、作業に取りかかった。
それにホッとして虎徹が立ち上がると、泣き出しそうな子供達を慰めていた。その声を聞く限り、どうやらふざけたせいで柵に倒れかかって引っこ抜いてしまったのは、彼らのようだ。
もっときつく叱ってもいいだろうに、虎徹は故意の悪戯や怪我に結びつく事以外は、あまり叱らない。甘い人だと溜め息を吐きながら、バーナビーは柵を直すべく垂れ下がったロープを引っ張った。
そこに悲鳴のような甲高い声で切羽詰まったブルーローズの声が響く。
「ちょっと、この鳥突っつくんだけど?!なんで?!」
「そのまんまこっちこい、ブルーローズ!よっし、よくやった!」
彼女ごと抱きとめるように大きなガチョウを捕まえてくれたブルーローズの頭を撫で、その重い荷物を代わるように虎徹が腕を差し出した。
暴れていたガチョウは、けれど何故か虎徹が腕に抱いて暫くすると大人しくなってしまう。ブルローズには納得がいかないけれど、きっと抱き方が悪かったのだ。
………今度は絶対に彼に頼らなくても大丈夫なようにしようと、つい闘志を燃やしてしまうくらい、虎徹は笑顔でガチョウを宥めていた。
「おじさん、足邪魔です、どかして下さい」
ガチョウと戯れ始めた虎徹の足下、丁度踏まれているロープを引っ張りながら、こちらの事を見向きもしない担任に苛立ったようにバーナビーが声に刺を孕ませた。
動物を捕まえるのも大切だけれど、柵を直さなくてはまた逃げ出すのだ。、まずはそちらから取りかかるべきだというのに、手順というものを解っていない担任に、つい呆れた溜め息が漏れてしまう。
「おお、バニーちゃんも器用だな。助かったぜ」
そんな事は露程も気にしていない天真爛漫な笑顔で、ガチョウを抱えた虎徹は笑って二人をねぎらった。………ねぎらわれた感じがしなくとも、きっと彼はねぎらったのだろう。
深く長く溜め息をついて、ブルーローズとバーナビーは肩を落としてどうしようもなく破天荒な担任を見遣った。
「まったく、あなたって言う人は………」
「ほんと、あたし達がいないとまともに終わらせられないんだからっ」
「いいじゃねぇか、終わりよければ全てよし!ほら、お前らだって動物、触れるようになったじゃねぇか」
クックと喉奥でおかしそうに笑いながら、ガチョウを柵の中に戻す虎徹が指摘する。………すっかりそんな余裕はなくて忘れていたけれど、いつの間にか二人は柵の中、動物に囲まれていた。
これはしてやられたと考えるべきか、それともただの偶然か。悩むように顔を顰めた二人が顔を見合わせた。
それすら楽しそうに見つめる元凶の担任は、子供達の頭を撫でながらまた遊んでいい事を告げ、そうしてたたずむ二人を嬉しそうに見上げた。
「来年はお前らがふれあいの園担当だな♪」
そうにっかり笑う虎徹の顔に、二人は目を瞬かせてしまう。
………これが計算だったのか天然だったのかなんて、解らない。解らないけれど、ぎゅっと二人は唇を引き締めた。
そうしなければ、緩んでしまいそうだ。
認めてくれた。任せてくれると言ったその明るい声。
無邪気な笑みとともに差し出された無辜の信頼。
喜びに染まりそうな唇を、意地だけで飲み込んだ二人は、ただ不貞腐れたように顰めた顔でお互い別々の方向へそっぽを向いて、小さく軽く、息を吐いた。
……………歓喜を込めた、満足な吐息を。

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