市場の中は活気づいていた。勿論、朝に見て回る市場とは比べ物にはならないが、青年が祭りと称していたのも頷ける、そんな明るさと笑顔と人ごみがそこには存在していた。
珍しいその様子に少年は首を巡らせ、目を輝かせながら、少し押さえ気味の声で隣の青年に声を掛ける。………そうでなくては、子供のように弾んだ声を出してしまいそうだった。
「色々、ありますね」
そう呟いた声の色に、青年はにっこりと笑う。思った通り、こうした場所に彼はあまり訪れた事がないようで、雰囲気だけでも十分楽しんでいるようだった。
………本当は、出来る事ならこうした人ごみには紛れたくないというのが本音だ。
エクソシストとしても、ブックマンとしても、人という生き物は若干、隣にいるものではなく、対峙し見据える存在になりやすい。
それでも出来る事なら、この少年を連れて行く先は明るく笑顔の溢れる、人々の行き交う場所がよかった。
ただそれらを眺めてしまう少年に、一歩踏み込み輪の中で一緒に笑う術を知ってほしいと思った。きっともう、その時点でとっくに自分は囚われていたのだと、出会ったばかりの頃の破天荒な旅を思い出した。
その最中でも十分によく知った少年の食欲を思い、青年はにんまりと笑って彼が喜びそうなこの先の露天を指差した。
「食い物も多いさ。ほら、あの辺りは出来合いだから食べ歩けるぜ」
チェロスやワッフルなどの軽く甘いお菓子の香りもあれば、ピッツァやバーガーなどの食事系もある。よく見えはしないが、きっとアルコールやジュースの露店もあるだろう。フルーツの切り売りも捨てがたい。そんな事を思い、目を輝かすだろう少年を振り返ってみれば、何故か困った顔をして小さく首を振っていた。
はてと、思わず目を丸めて首を傾げてしまった。
確かにここに来る前、教団の自室で沢山のお菓子を食べた。それは間違いがない。確実に自分なら一日は胃もたれをしていられる量を美味しそうに平らげていたのは記憶に新しい。
そしてその程度は、あくまで彼にとっては軽食だ。食べずに我慢している事も出来るようだけれど、可能な時はしっかりと食べるという習慣も彼にはある。そのせいか、任務先ではあまり食べない彼は、教団内にいる時は途方もない量を毎食食べるのだ。
その片鱗に過ぎないおやつタイムの事など、数に入れる必要もない。きっとこの鼻先をくすぐる微かな香りだけでも彼の胃は刺激を受けている筈だ。近付けばもっとずっと濃くなる香りに飛びつくとばかり思っていたのに。
「?食べんの?」
まさか具合でも悪いのかと目を眇めて様子を伺う青年に、少年は慌てて両手を振って否定した。
「だってここ、領収書、きれないでしょう?」
露店で領収書が欲しいなど見える筈もない。ましてや食べようと思えばそれこそ露店を食べ尽くせる少年だ。自粛すべきところは自粛しなくてはいけない事くらい、幼い頃から骨身に沁みていた。
この雰囲気だけでも楽しめればそれでいいというようなその様子に、すっかり失念していた事を青年は思い出した。
師の借金を背負っていて、その額が尋常でないというその事実。よくぞそんなものをきちんと肩代わりしているものだと呆れてしまうくらいだ。なんだかんだといっても、彼は自身の師に甘いところがあると、つい苦笑してしまう。
………もっとも、甘いというだけで相当な額の借金など背負ってほしくないのは事実だけれど。
「あー…なるほど。んっじゃあ、一個選んでいいさ。奢っちゃる」
どれでも好きなものを、と言ったところで萎縮してしまうだろう少年を思い、青年はあえて数量を限定して声を掛けた。その程度ならばこの露店の中、どんなものをねだられても金額などたかが知れている。……そしてそんなたかが知れている金額も惜しむくらい、彼は自身の為にお金を使わないのだ。
こういう場所はいるだけでも楽しい。それは間違っていない。けれど、出来る事ならばそこに、もう少し色彩豊かな思い出を加えたかった。
一緒に食べたこれが美味しかったとか、その香りの鮮やかさとともに、空の色も露店の人の顔もこの市場の中を行き交う活気も、鮮明に。
それを思い出す為の、初めの一石となるものを、何か選んでほしいと言ってみれば、驚いたように少年は目を丸めて首を振っていた。
「いいですよっ!自分が食べたい分は自分で稼ぐのが当たり前です」
今までもずっとそうして生きてきたし、それ以外の生き方など知らない。芸をしてそれに対して対価を与えられるピエロでもなく、命を賭けて戦いその日の糧を貰えるエクソシストでもない。ただの個人として与えられるものの意味が、少年には解らない。
否、全てが解らない訳ではない。それが好意である事は解るけれど、与えてもらって返せるものが何かが、解らない。
返せもしないのに貰う訳にはいいかない。
そう首を振っている少年に、変なところで律儀なものだと青年は苦笑する。これも借金に追われて苦労してきたが故のものだろうか。
「んー、でもな、俺食べたいし」
甘える事が、いっそ怖い子だ。それは多分、借金でも弟子として旅を続けた日々でもなく、それらを迎えるべきたった一夜の惨劇の記憶故に。
幸せを、手放す事を先に考えてしまう。………自分にもあるその悪癖は、けれど理性によって制御する自分とは真逆に、彼の場合は想念の始まりに埋め込まれ、それ以外の選択を却下してしまう。
使命故などという理由も言い訳もなく、そうする事以外を知らない寂しさを、どうしたなら溶かし消し去る事が出来るのだろうか。
多くの言葉と歴史を知る身でありながら、そんな誰もが思うであろう想い人を守る術すら、自分は知らない事がいっそ滑稽だ。
差し出した手のひらを、少年が見つめる。どうしてそれが差し出されているのか、言葉と合わない仕草に戸惑っているのだろう。
それを見つめ、笑いかけた。いつも通りにっこりと、彼が安心するように。
「?」
微かな戸惑いを傾げた首に内包させながら、少年は小さく笑った。困って逸らされていた視線が戻ってきて、真っすぐに青年を映す。綺麗な銀灰に鮮やかな赤がよく映えていた。
それを瞬きとともに記録した青年は、差し出した手のひらをそのままに一歩踏み込み、少年の手首を捕らえた。
相変わらず、細い。これがいざとなれば音速と怪力を誇る武器となるなど、誰も想像も出来ない細さだ。
まだ身体すら出来上がっていない少年の年齢を思い、眇めかけた瞳を気力で捩じ伏せ、青年は戯けるように唇を持ち上げた。
「アレン、俺ひとりで食べてたら絶対寂しいさ〜?」
美味しいものが大好きで、食べる事が大好きな少年だ。青年ひとりが何かを食べていればきっとお腹が鳴く事だろう。
そうしてそれに気付かれないようにと距離をとって、とった距離の分離れた存在が遠く感じて。
一緒にいるのに一緒ではない、それは考えるだけでも寂しくて悲しい事だ。だからそんなものを選ばないでと笑う柔らかく垂れた新緑に、少年はきゅっと唇を引き結んだ。
でかかっ甘えの言葉を飲み込むような仕草に青年は眉を垂らして苦笑を浮かべる。相も変わらず手強い子だ。………もう一押しすれば、落ちてくれるだろうか。
「だから、食べよ、一緒に」
「………我慢できます」
甘えるように囁いた声には、そっと逸らされた視線と固い声が返される。
やはりそこらの女の子を落とすような仕草では落ちないかと内心溜め息を吐きながら、ぷくっと頬を膨らませてみせる。少年は自分が子供っぽいと思っているので、これくらいの仕草は許容範囲だろう。
「頑なっ!もうちっと甘えるさぁ」
子供のように我を曲げない少年に拗ねてように訴えてみせれば、機嫌を損ねたのか、少年はちらりとこちらを見遣って片眉を上げたあとに、今度はしっかりとこちらに解るようにわざとぷいっと顔を逸らしてしまった。
「十分甘えてます。甘やかし過ぎないで下さい」
こんな風に連れ回してもらう事も、本来ならば許されない事くらい、知っている。その為に要らぬ詮索や憶測、あるいは嫌味や嫌がらせくらい、受けているだろう。
人が優しさだけで出来ていない事くらい、骨身に染みて知っている。だからこそ、優しい人達が自分のせいで痛む事を減らしたいと願うくらい、許してほしい。
そう引き結んだ唇で飲み込んでみれば、耳に触れたのは微かな溜め息。
「ったく。じゃあいいさ」
そういって青年は背中を向けて歩いていってしまう。
まずかったかな、と少年は微かに俯いてその踵が進む先を見つめていた。
お礼が言いたくて、言えるなら、大好きだと言葉に変えて。
………けれど、現実はいつもこんな風で、寂しいくらい素直に人に甘えられない。
甘える事など許されない。
思い、込み上げた吐息を必死に飲み込んだ。謝るべきだろうか。謝るとして、何を謝ればいいのだろうか。
不快にした事は解っても、不快の原因が解らない。そんな少年には難しい問題だった。
悩み、段々足が重くなる。俯いた視界には地面と、ギリギリの位置に青年のブーツの踵が映っていたが、あまり認識はしていなかった。
だから、驚いた。突然目の前に現れたバケットサンドに。
「………え?」
ひどくそれは長くて具が溢れるほど詰められてパンクしそうなサンドイッチだった。レタスにピクルス、キュウリにパプリカ、トマト、玉葱、ハムやサラミまでがぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
美味しそうなソースがかけられていて、甘く芳ばしい香りが鼻先をくすぐる。
思わず目を瞬かせて、次いで慌てて意地汚く鳴りそうなお腹や、飲み込む唾液を我慢した。
そんな仕草は隠してもバレているのだろう、青年は小さく吹き出した。そうして恥ずかしくて色づいた頬を隠してあげるように、ますます俯く白い髪を乱暴にかき混ぜた。
「え、って…だから、半分」
いたずらに髪をぐちゃぐちゃにする指とは裏腹に、響いた声は優しかった。
それにまた少年は目を瞬かせてしまう。……てっきり怒ったと思った相手の声が、あまりにあたたかくてどう反応すればいいかが解らなかった。
「はい?」
「奢られんの嫌なんさ?だから、半分だけ」
クスクスとからかうような声が柔らかく紡がれる。
白い髪を解放した精悍な指先が、ずいっと差し出されたバケットサンドを示す。
こんな間近で見る機会などないので知らなかったけれど、その指先は思ったよりも武骨な戦士のものだった。
同時に、そのあたたかそうな肌の色や仕草が、彼の繊細な意思を垣間見せるようで、少年はじっと指先に魅入られてしまう。
男の割に整った爪が、愉快そうに揺れてバケットを揺する。溢れそうなトマトが落ちる気がして、少年は条件反射で手を差し出してしまった。
その手首をあっさり拘束した指先が、逃がすより早くバケットの片側を掴ませた。と思うと、そのまま包み込んだ手のひらが器用にバケットサンドを2つに折ってしまう。……その振動に耐えられなかったトマトの欠片があっさりと地面に落ちてしまった。
思わず追いかけた視線に、今度こそ青年は吹き出していた。
不可解そうに見上げてみれば、彼は口許を押さえて笑いを引っ込めようと努力していた。
視線に気付き、まだ楽しげに垂らした垂れ目をそのままにして、その手に持つ千切れたバケットサンドを軽く持ち上げてみせた。
「可哀想だから分けてあげたって事で食べる!」
一人食べても味気ない。奢るのが駄目なら、半分こ。解り易く明快な解答だ。
その言葉と態度に棘などある筈もなく、少年は首を傾げて不思議そうに問いかけてしまう。
「……怒って、いないんですか?」
「?何を?」
問いかけに即返された明快な疑問。
瞬く新緑がその言葉を真実として少年に迫った。………が、理由も解らず感じとった感覚を説明する術などある筈もない。
問い返された少年は目を丸めたあとに首を傾げ、困ったように眉を垂らした。
「え?えーっと、何をだろう…」
考え始めたら混乱し始めてしまう。一体何を青年の中に見出だして怒らせたと感じたのだろうか。
優しい彼が、この程度の意固地に怒る筈がない。そうでなければ、とっくに愛想を尽かされているに決まっていた。
悩み始めたアレンの眉間に浮かぶシワを、青年は軽やかに指先で弾くとクスクスと笑いかけた。
「理由もないなら怒らないさ。変なアレーン♪」
面白そうに抑揚をつけて歌うように言う青年は、早速バケットにかじりつきながら歩き始めてしまう。
その背中の優しさに追い付きたくて、少年は甘えるように抗議した。
「ちょっ、失礼ですねっ」
小さく見開いた隻眼が、ふにゃりと嬉しそうに笑んだ。それに一瞬、息が詰まりそうな自分に驚いてしまう。
「ほら、これで機嫌直して。折角なんさ、楽しも?」
踏み出した足先。ほんの少し待っている踵。
手を、差し伸べているわけでもない青年の背中。BGMのように響く、柔らかな明るい声。
困っていた自分が気にしないように、多分気遣ってくれている。バケットをかじりながら、青年はあちらこちら指差して説明してくれていた。
驚くほどそれは多岐に渡り、少年の視線が向かう全て、その豊かな声が音に変えて伝えるほどだ。
………どうしてこんなにもこの人は、優しいのだろう。不思議な思いを抱えて晒される頬を見遣ると、眼差しがかち合った。
それに喜ぶように深緑が細められた。触発されたわけではないけれど、少年はこのタイミングを逃すまいと、必死に口を開いた。
何から言えばいいだろう。突然ありがとうはおかしいだろうか。ならばその理由を告げてからか。
慣れない言葉を差し出す事に目が回りそうになりながら数度開閉した唇が、ようやく定めた音を紡いだ。
「……あの、これ…美味しい、です」
躊躇いながら、おかしくない流れをどうしたなら作れるかと、惑う唇は必死に音を探す。
微かな震えを帯びた声に、青年は少しだ少年を見据えたあと、萎縮していない意識を見取ってニコッと笑った。
「そ?よかったさ〜」
戯けるような声も、その笑顔も、安心させる為のポーズだ。解っている少年は、ふるりと首を振りかけて、押さえ込んだ。
「あの、ラビ」
言葉で、伝えたいのだ。数多くの音を与えてくれた青年に、自分も返したい。
けれどやはりいざとなると目が回るばかりで言葉が出てこない。何故目の前の青年はあんなにもスラスラと言葉が綴れるのだろう。
………それが本職だからと、寂しく笑った青年を思い出す。
言葉が、時に彼にとって重くのし掛かる痛みに変わる事を、何とはなしに気付いたのは、多分その時だった。
彼の過去は知らない。彼はあるいは自分の過去を知っているかもしれないが、自分も彼に話した事はない。
だから、お互いにきっと、肝心な時には言葉が不自由なのだろう。
自分は慣れない事と躊躇いから。
彼は、慣れてしまっているが故の、境界線の為に。
「えっと、あのですね。あの、これ、美味しいです」
それを、あるいは踏みにじる事になるのかは、解らない。青年にも老人にも感謝しているから、告げる言葉に嘘はない。ないけれど、それが痛みを呼ばないとは言わない。
自分とて、優しさの言葉に古傷を思い出す事はある。それをより深く重く背負う彼らには、些細な言葉も琴線に触れる事はあるだろう。
それでも伝えたいのは、自分の傲慢だ。
そう定めた少年の眼差しが、微かに揺れて日差しを反射した。
「?うん。こっちもいる?」
どうしたのかと、青年は変わらぬ穏やかさで返しながら、食べかけのバケットを差し出した。
お腹が空いたからと泣き出すほど子供ではないけれど、確かに少年の食欲を考えれば足りないかもしれない。
何か買い足そうか。その時はなんといって丸めこもう。そんな事を考え、露店を見回そうとした青年の袖に、小さな抵抗が生まれた。
それは少年に差し出した、バケットを持った腕だった。空になる筈の手のひらには乗ったままのバケットサンド。ピクルスがレタスの上で揺れているのさえ、差し出した時と変わらなかった。
変わったのは、その袖を少年の指先が摘まんでいる事だ。
手のひらを掴むのでも、手首を捉えるのでもなく、振り払うことが容易なほどささやかに、ただ二本の指先だけで引かれた片腕。
「いいえ、大丈夫です!ちがくてですね。あの…」
キラキラと日差しを受けた少年の真っ白な髪が輝いていた。それを呆けたように青年は見下ろしている。
俯いてしまった少年のつむじが見えた。髪の合間、隠れがちに覗く耳が赤い。
感化されそうな己を必死に自制して、青年は少年の言葉を待った。
「これも、あと、いつも色々、沢山、嬉しかったり楽しかったり、くれて」
きっと世話しなくその視線は動いている事だろう。それを思い、青年は小さく笑った。
不器用な少年は、改まった言葉が苦手でいつも言い出すまでに時間が掛かる。
ずっと待っていると教えるように自分達は彼に可能な限り時間を与えていた。
そのおかげか、随分と彼は言葉を躊躇わなくなったと、思う。
おどおどともいえる仕草で顔をあげた少年。やはり綺麗な銀灰が日に透けるように輝いている。こんな事程度に涙など溜めなくていいのにと笑いかけてみれば、それに安堵したように寄せらていた眉間のシワが消えた。
そうして灯されたのは、陽光に溶けるほど柔らかな、微笑み。
「ありがとう、ございます」
幾度も躊躇ってどうすればいいか悩んで。
それでも零れ落ちたのは思った以上に柔らかく響いた小さな声。
呆けたように丸まった青年の片目を見つめて、少年は目を細めた。
目映い太陽を見上げるように、赤くしなだれる青年の前髪を見つめる。
嬉しいこと、楽しいこと。
冷たいこと、厳しいこと。
隠さず真っ直ぐ差し出してくれた。
………とぼけてふざけて戯けるスタイルを貫く癖に。
最後の最後、差し出してくれるのはいつだって誠意に溢れた彼自身の言の葉。
感謝なんて、いくらしたってしたりない。
そう告げる柔らかな銀灰。
………見返す新緑は、微かに眇られ、そっと閉ざされた。

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