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掃除機を抱えて階段に足をかけると、背中から声をかけられた。
「おお、アレン、調度いいところに」
聞き慣れた嗄れた声に、少年はパチリと睫毛を瞬かせると、小さく首を傾げた。
「ブックマン?どうかしましたか?」
昼食は済ませたばかりだし、おやつまでに時間はかなりある。
今の内にと掃除を始めたばかりのアレンは、目を瞬かせて老人を見遣った。
「いや、ラビを見んかったかのう」
煙管をふかしながら問う声は苦笑が滲んでいた。それに何かあったかと今日の二人の予定を脳裏に浮かべた。
いつもと変わらない、午後は勉強の時間だ。早朝からの鍛練も済んだし、次は頭の体操がいつものパターンだ。
「いいえ?ジュニア、どうかしましたか?」
つまり、今は彼の元にあの子供はいる筈だと、少年は赤い髪の幼く利発な姿を脳裏に浮かべた。
「………逃げおったな、あやつ」
が、それはすぐに舌を出してあっかんべーの顔に変わった。
老人の一言に即事の次第を察した少年が、掃除機を掴む腕に力を込めて、眉を吊り上げた。
「え、また勉強嫌がったんですか!」
ミシリという音が響いた気がする。
………あの掃除機も随分と頑丈で助かった。そんな事を思いながら煙管をふかし、老人はこの怒りの矛先になる孫に胸中で小さく忍び笑った。もっとも、自業自得ではあるけれど。
「まあ嫌というより飽きたな、あれは」
既に課題に与えた本は読み終えていた。が、そのあとの講義を嫌って消えた。つまり、既に学習し飲み込んだ事を繰り返す事が嫌なのだ、あの孫は。
しかし本を読むだけで全ての理を知り得るのであれば、この世に学び舎が生まれる筈がない。己の頭脳の希少価値をよく理解している癖に、そうした部分はまだまだ子供だ。
目の前の少年が勉強をすっぽかす度に悲しむ事を、まだ理解もしていないのだ、あの愚かな孫は。もっとも、解らないようにしてしまっている彼も、そしてそれらを知っていながら立ち入らない自分も同罪ではあるけれど。
苦笑を煙管の陰に隠した老人に、掃除機を抱えたままの少年は、ぷんと頬を膨らませて眦を上げたまま綺麗に透き通るその声を響かせた。
「どちらでも同じですよ!いいです、掃除がてら、見つけ出します!」
「すまんな、わしは書庫におる。見つけ次第しょっぴいてきてくれ」
これは特大の雷が落ちそうだ。考えてみると、今月で既に10回目。………つまり、毎日記録更新中だ。そろそろ堪忍袋に亀裂が入ったかもしれない。
泣きじゃくって帰ってくるか、逃げる為に舞い戻ってくるか。それとも恐怖に引き攣って青ざめてやってくるだろうか。
どれもあり得そうで愉快な姿だ。こちらもこちらで、そろそろ灸を据えるプログラムを考えなくてはいけないだろう。
「了解しました。……あ、ブックマン」
少年の応対による孫のダメージの度合いを計って、どのプログラムを敢行するか脳裏でシュミレーションをしながら背中を身蹴る老人に、そっと少年が声を掛ける。
それは慎ましい、静かな声だ。先程の鋭い響きからは想像もつかない音色。
「?なんじゃ?」
振り返り、老人が片目を大きくして問うように眼差しを向ければ、ぱっと少年の顔が輝いた。
「今日のおやつ、何がいいですか?」
にっこりと清々しい笑顔で微笑んで、少年は子供とはまるで無関係の問いかけを送った。
「やぁっと見つけた!このバカジュニア!!」
掃除も佳境となり、ウォーキングクローゼットの中をひっくり返す勢いでくまなく睨みをきかせて見つめれば、箱の連なるその一角、不自然に大きく重ねられた部分がある。
一見、それは不可解な雰囲気はない。辺りにも箱は散乱しているす、誰が着るのか問いかけたい山のようなよそゆきの服が掛けられた衣装部屋だ。毎日簡素な服ばかりをきている老人や孫の子供を思えば、この服の山は宝の持ち腐れもいいところだ。
なにせ、最早これをクローゼットと少年は呼びたくないくらいの規模なのだから。
以前、勿体ないと呟いたら、二人で仲良く自分に色々着せてくれた事もあり、随分と着せ替えを楽しまれた覚えがある。
彼らはきっと、妹や娘がいたら人形のように色々な服を着せては飾り立てて連れ歩きたがるのだろう。………どちらも男でよかったと、若干思ったのはそう昔の記憶ではない。
それ以降、すっかり手つかずでいた場所だが、今日は別だ。ここのところの逃げ先のパターンを考えれば、そろそろ虱潰しをされて、隠れる場所も減ってきた。
若干敬遠している事を知っているあの子供ならば、裏をかいて普通にここにいそうだと思ったその勘は、腹立たしい事に当たってしまった。
箱を丁寧にどかす腕とは裏腹の、おどろおどろしいともいえる雰囲気と怒鳴り声に、すっかり本に夢中になっていた子供は、身体全体を跳ねさせて真っ青な顔で上を見上げた。
そこにいたのは。大好きな綺麗な世話役の顔。
……………背後に般若を背負った、怒りMAX越えをした、愛しい微笑みの少年だ。
ざぁっと音を立てて顔を青ざめさせた子供は、本を両手で抱えながら壁際に身体を寄せて逃げようと背を向けた。その首根っこを、細くしなやかな指先があっさりと捕まえた。
「ぎゃー!?鬼、鬼さぁ?!」
「失礼な!そんな顔をさせているのは誰ですか!」
こうしてちゃんと本読んでいるのに!と叫ぶ子供の声に、呆れたように冷たい声が降り注ぐ。………それに、ぴたりと暴れていた身体が凍った。
きょとんと己の愛らしい顔をしっかり活用しながら子供は宙ぶらりんの格好のまま、少年を肩越しに見上げた。
「……あ、もしかして、バレた?」
てへっと可愛らしく誤摩化そうとするその赤い、前髪の奥、形のいい額を少年は軽く指先で弾いた。
それに驚いた子供の手から、抱えていた分厚い本が落ちてしまう。………が、二人とも気にしていなかった。
「バレバレです!全く、学べる事がどれだけ幸せか、知っているでしょう?」
この世界、学びたくても学べず、ただ日々を生きる為にこき使われて一生を終える子供も山のようにいるのだ。そんな中、食べる事に困らず日々知恵を与えられ、それを活用する為の地位を与えられる約束がなされた子供は、とても幸運だ。
それくらいは疾うに承知して甘受している子供は、それでも唇を尖らせて拗ねたように顔を顰めさせた。
「でもジジイスパルタ過ぎさぁ」
たった今読んでいた本も、同じ程の厚みをあと5冊、今週中に読めといわれた。そしてその内容全てを記録しろと。………ちなみに、週初めに与えられた本の数は10冊だ。一日一冊でも追いつけない。
その上、それ以外の、先週読んで記録した内容についての復習の毎日。朝は日も出る前から身体の鍛錬だと死にかけるような修行をさせられて、へとへとになって少年の作ってくれた朝御飯にありつくのだ。
………そんな風に自身の日課を考えると、学べずにこき使われる子供達と自分と、どちらがより過酷か、悩んでしまう。
そんな子供の日常を、祖父以外で唯一身近に知っている少年は、フムと首を傾げて、小さく苦笑した。
「……まあそれは確かですが」
否定出来るようそがないと苦笑する少年は、子供をようやく床におろすと、先程落とした本を優しく取り上げ、傷がないかを確かめた。
その手元に顔を寄せて甘えながら、子供は顔を輝かせて同意を得ようと少年の腕を引いた。
「だろ!?」
「でもね、あなたなら出来るからです。沢山、あなたに与えたい事があるんですよ、ブックマンは」
その仕草も毎日の事だ。そして、与えられる解答もまた、同じ。
少しだけ寂しくそれを見つめながら、それでも少年は優しく微笑んで本を脇に抱えると、腕に戯れつく子供の頭を撫でた。
どうあっても祖父の事を優先する少年に、むくれたように拗ねる子供の顔をも、いつもの事だ。その膨らんだ頬を優しく辿るように手のひらで撫でて、そっとついた膝に乗せるように子供を引き寄せた。
「だから沢山受け取って、大きくなってください」
ぎゅっと、腕の中、世話役が与えるには近い距離での慈しみを、子供に捧げる。祖父以外に人のぬくもりを知らないこの子供は、賢く無邪気だけれど、時にそれらがしたたかな計算の裏に落とされる事もあるのだ。
学のない少年が与えられる事は少ない。ただ、抱き締めてぬくもりを、慈しんで心を。それだけだ。
…………そして、それをこそ願い、老人は決して上等とはいえない世話役のスキルを知りながら、少年をこの家に招き入れたのだと、知るのはずっと未来の話だけれど。
何も知らないまま、それでも少年は老人の望むまま、愛される事に疎く人の心を知り得ぬ子供を、包み、祈るように囁きかけた。
「身体だけじゃなく、知識も心、しっかりと、ね」
そっと撫でた赤い髪。さらさらと落ちた先は、形のいい子供の額。
その下の眉が、むすっと吊り上がって、大きな翡翠の隻眼が睨んできた。
揺れる翡翠は、どこか寂し気だ。怒っている癖に、泣き出しそうなその輝きは、きっとまだ彼が感情の形を獲得しきっていないせいだ。………己に、泣きたがるような弱さはないと、そう思い込んでしまっている子供。
「………ずるいさ」
だからきっと、そんな震える声さえ、彼は憤りだと勘違いをする。それを抱き締めたまま、そっと額を重ね合わせ、少年は続きを促した。
「うん?」
「アレンはジジイ大好きだから、いつもジジイの味方ばっか」
むくれた、幼い声。ぎゅっと引き結ばれた唇は、疎外されたと嘆いている。それを認めたがらない、幼い知性を、少年は彼のプライドの高さを慮ってみなかった事にした。
それはいつもの仕草だった。………だから勘のいいこの少年は、そっと落とされた睫毛の長さに、子供が惚けたように見つめる事さえ、知らない。
「そんな事、無いですよ」
それでもいつも囁くその声に、子供が耳を澄ませる事だけは、知っている。
「ただ、ブックマンの気持ちが解るなってだけです」
「?ジジイの?」
「限られた時間の中、あなたにどれだけのものを与えられるだろうって」
顰めるように囁く子供の声に、そっと頷く綺麗な白い顔。揺れる白い髪も、初めて出会った時のまま、透き通るようで綺麗だ。
それを理由もなくただ指に絡め、そっと撫でて掴む。それを受け入れてくれたのか、微かに少年の唇が弧を描いた。……それが嬉しいと、何故かいつも感じて子供の心は綻んだ。
「僕も結構、考えていますからね」
が、そのほころびは、同じ強さで痛みを与えた。少年の躊躇いの音に、軋むように心臓が痛かった。何故か喉まで圧迫されて、息苦しくて仕方がない。
それらを無様に晒す事を嫌い、子供はぎゅっと握り締めた指先と深く吸い込んだ呼気で押さえ込み、そっと間近な白い頬に瞳を落とした。
「………アレン、いなくなること、あるん………?」
声は、情けないくらい幼く聞こえた。それを少年が笑う筈もなく、そっと重ねられていた額が擦れるように揺れて流れ、自分の肩に埋められる。………抱き締めてくれたのだと、気付いたのはぬくもりに包まれて呼吸が楽になったあとだった。
「解りません。だから、悩みます。でも、その日が来るまでずっとお世話させていただきます」
「……ずっと一緒がいいさ………」
鼻を啜りそうな圧迫感は、相変わらずだ。それでもそれが嫌ではなかった。だから告げた言葉に、少年は困ったように、けれど頑強な意志を持って、囁いた。
「なら、僕がいられるように、しっかりブックマンを継いで下さい」
間違ってはいない。自分がブックマンを継がなければ、彼を雇うものはそう遠くなく、いなくなる。
だから、彼を傍に置きたいなら、どれ程面倒臭くてもつまらなくても、祖父の与える勉強は全て履修してこなさなくてはいけないのだ。
「うー……、じゃあさ、今日のおやつ、俺の好きなのにして!」
苦々しいこの後の祖父の説教と折檻と、プラスされる課題を思い歪められた子供の顔は、それでも一抹の望みを託すように必死に少年に向けられた。
「え?」
それに、素っ頓狂な声で少年は答えると、子供の肩から顔を持ち上げてしまった。
「そしたら、それまで頑張る。ジジイの説教もちゃんと聞くさ」
それくらいの見返りはあってもいい筈だ。そう唇を尖らせた子供は、すぐに返らない返事に、しゅんと眉を垂らして小さく俯いたまま少年を見上げた。
「………駄目?」
それに仕方がなさそうに軽く息を吐いた少年は、苦笑を零して赤い髪を撫でた。
「いいですよ。さあジュニア、こちらに」
もうこのクローゼットの中での話はおしまいと、膝をついた少年が立ち上がろうとした。その瞬間を狙って、子供はそっと腕を伸ばした。
「アレン、抱っこ」
先程まであったぬくもりが惜しくてねだったなら、解っているというように少年は頷くと、首に腕が回せるようにそっと身体を近づけてくれる。
「はいはい、書庫の前まで、ね」
片腕であっさりと抱え上げた子供に、言われるより先にこの体勢のタイムリミットを告げて、少年は片腕に子供を、片腕に分厚い本を持ち、クローゼットから出た。
…………目指すは、老人の待つ書庫だと、子猫のように擦り寄る子供の赤い髪に口吻けて微笑んだ。
そろそろ三時だ。ジュニアを送ってすぐに作ったアイスも出来ただろう。
ワッフルの焼き上がりも、あと少し。そろそろカットフルーツを盛った皿を冷蔵庫から取り出さなくては。
泡立てた生クリーム。焼きたてのワッフルには、バニラアイスを乗せて。
老人のリクエストの白玉もちゃんと美味しく冷えてくれた。特別サービスで、今日は白玉クリームぜんざいだ。
さあ、準備は出来た。
時計ばかり気にして叱られているだろう子供と、叱りながらも苦笑を浮かべる老人を呼ぼう。
また明日も二人の為、お世話が出来る喜びを歌いながら………