何があろうとエクソシステであり続ける。………それは多分、幻想でしかない綺麗事だ。
少なくとも自分はずっとそう思っていた。いつだってこんなもの、辞めたかった。見出され選ばれたが故に背負った全てが重過ぎた。
愛しい人も、記憶も、自分という個も、一度は潰えた。新たに生まれた後、初めて手に入れた親友をこの手で殺し、壊れた記憶を頼りに涙を流す事すら許されずにただ過去を求めて生きる事しか許されない、屍じみた生。
この中に一体どんな希望を見出せというのか。
………それでも、少女に告げられた言葉に、間断なく自分は頷いた。
あの馬鹿な少年は言うだろう。何も含まず、それ以外の生き方などいらないと微笑んで、言うだろう。
この教団が、ここにいる人達が愛しいのだと、愚かにも心からの祝福でもって、言うだろう。
思い、呆れ半分に吐息を落とし、うるさい周囲を見渡しながら小さく呟いた。
「アイツなら言いそう…」
呟きながら、その真っ白な面影を脳裏に浮かばせた。
それが苦しそうに笑いながら語った言葉を、脳はまるで望まれたと自負するようにリフレインさせる。
………優しい音。苦しげな響き。いっそ艶やかな白。
蘇る、その自分の罪を見つめる。壊れた記憶しか持たない癖に、自分は自分となって後の記憶ばかり、こんなにも鮮やかに見出せる。
そんなものいらないのに。過去の日だけを思い生きる覚悟をしていたのに。………それでもあの羊水から這い出た日から、自分の記憶は途切れる事なく続いていた。
そうして遠慮なく自分を見上げる少女を、少し呆れて見つめる。彼女も話を聞いているならば、もっと自分に憤りをぶつけてもいいだろう。目が赤く、うっすらとクマも出来ているその様子を見れば、この三ヶ月の精神状態は明白だ。
それでも彼女もまりも、何も言わない。ただ自由であればよかったのにと驚きの中喜びだけを差し出し迎え入れた。
そっと伏せた睫毛に、二人の団服を映した。それを着るからには共にある、決して離れる事の叶わないイノセンスを思う。
………今はこの手にない、自身のイノセンス。
それが貫いた、献身しか望まない馬鹿な少年の血と肉と内蔵の感触。自身の首に触れ、その脈動を感じながら思い出す。過去に引き摺られ混濁した意識は、そこからまた鮮やかに蓮の花を彩り始まった。
ようやく見えた現実世界の瓦礫の中、白を褐色に侵され嘲笑いの地響きと共に中空に浮いた、自分がノアに落とした少年。
初めに見えた、それは自分の罪の形だ。
その姿に花が咲いた。真っ白な蓮の花が彼を彩り、まるで寄宿するように蕾をもたげ、花を咲かせていく。
それを今一度目蓋の裏に見据えた。
……自分の世界には、常に花が咲いていた。鮮やかで美しい、蓮華の花。決して語る事なく、ただそこにあるだけの華。真っ白に泥の中咲き誇る気高い花だった。
それがあの時だけ、初めて赤く彩られた。
けれどそれは嘆きの叫びではない。苦痛の悲鳴ではない。……それは、受難の祈りの色だった。
そして、おそらくは……………聖痕だ。
思い、何故ああもあの少年は馬鹿なのかと、心の内で舌打ちをした。幾度その時を思い出そうと、混沌の中の意識は明白ではない。けれど、確実に自分は彼を傷つけ貶める言葉を吐いた事だろう。
その上で、彼に武器を向け、その身を差し貫き、ノアを目覚めさせた。ずっと彼が押さえ込み姿すら誰にも見せずにいた筈のそれを、呆気無く自分はぶち壊した。
にも拘らず、馬鹿な少年は責めもせず、罵りもせず、かといって穏やかに許すわけでもなく。
今この時を見ろと、声ではなく魂で叫び刮目させる。自分を傷つけた相手に、そんな事は脇に置き、差し伸べるべき腕を間違うなと叫ぶ。
……それは稲妻じみた、生き物だ。
あるいは…そう考えて、辟易とする。エクソシストに与えられるイノセンスはただひとつだ。そうして……たとえ寄生型であろうと、イノセンスを宿したその命が、誰かのイノセンスである筈がない。
……………否、あってはならない。人という業深き生き物を支える為の供物など、これ以上増やすべきではないだろう。
あの雁字搦めに囚われて過去を捨てられず、そこにしか未来を見出だせない、みすぼらしい道化に、そんな大役を押し付ける気は毛頭ない。
思い、クツリと喉奥が鳴りそうだった。多分、笑う為に。
自分を見ているようでずっと苛立った。あんなにも自分も物欲しそうに世界を見つめているかと思えば舌打ちもしたくなる。
自分は違う。未来などいらない。求める資格もない。……ただ過去の記憶の華だけを見つけ出せれば、それだけでいい。
そうあの白い姿を見る度に言い聞かせ、その度に増える彼を彩る蓮の華に、憤りに近い忌々しさを感じた。
……今なら、解る。その意味を。
そしてそれを未だ知らず見出だせていないらしい、『神田ユウ』の幼馴染みである筈の少女を見遣った。
ひどい顔をしている。憔悴して、顔色も白くなった。
おそらく夜も眠れてはいないのだろう。激務の中、更に不足する休息が、どれ程危険を増大させるか、誰よりも長くその人生を教団に奪われた彼女が知らない筈がないのに。
……馬鹿だ。どいつもこいつも、多分、自分も。
それでもあの廃墟の中で見出だした答えを携え、舞い戻った選択を愚かとは思わない。
思い、どうしようもなく凹んだままの自分を見上げる少女にぽつりと揶揄の言葉を向けた。
「…………なんかおまえ、ブサイクになったな」
からかうように呆れた声を紡ぐ。きっと、そんな言葉を交わす事すら難しかったのだろう、自分が作り上げてしまった三ヶ月を思う。
「顔がパンッパンにむくんでるぜ」
平然と言ってのけた自分の言葉に唖然としたあと、響く彼女の怒った声も懐かしい。それを押さえるマリの声が、微かに安堵をもって響いた。
それを背に、少しだけホッとする。怒り、怒鳴り、それを分かち合えるなら、大丈夫だ。発露される感情が嘆きや悲しみだけに彩られては、進む道が塞がれる。
……エクソシストの嘆きや悲しみは、伯爵を喚ばぬ代わりに、あまりにもあっさりと世界を呪う歌に変わってしまうのだ。
それに浸りかけた事のある自分達だ。その思いとて、痛感する。
目蓋を落とせば…否、落とさなくとも鮮やかに咲く蓮の花。その意味を知れば知る程に、あの日泣きながらアルマを探した時間の苦しさを思い出す。
不用心なドアを開け、室内に入る。この部屋まで一歩たりとも迷わなかったのは、そこから自分を呼ぶ声が聞こえるからだ。………戻ってこいと、時は満ちたと、それは囁き自分を招く。
そこには室長と長官。その補佐らしい見た事もない鴉。
相変わらずの鬱陶しい室長を退け、先に進む。目的地は彼らではない。自分を呼び、ここに招いたのは、その更に奥の布の先だ。
そこに向かう歩先を制する、忌々しい音。それが呼ぶ名に腑(はらわた)が煮える音が聞こえる。………今もまだ、何一つ割り切れない。割り切れる筈がない。
冷徹な切っ先を眼差しに乗せ、魂など籠めもせず、虚空に落ちる声を落とせば、教団に関わるもの達は凍てつくように呼気を止めた。
が、中央庁の二人は別枠らしい、あるいは……そんなもの、その身に降り掛かる事さえ、覚悟の上か。
今も許せない。憎しみが止まらない。…アルマの言葉は、そのまま自分達の言葉だ。
自分もこの教団を許す気はない。過ちは過ちだ。犠牲を強いたなら、その犠牲となったものの怨嗟は当然の理として浮かび上がる。
だから、ここに来た。否、戻ってきた。
静かに笑い問うその声に、答える気はなかった。………答える意味もなかった。
知っている。あの馬鹿な少年が自分達を庇う事は、ゲートを壊した時点で想定していた。解っていながら、自分はそれを望んだ。無意識の中、望んでしまった。
砂の舞うあの迷宮で、幾度も空を見上げ、繋がる筈のないゲートを見つめ、腕の中の躯を抱き締めた。………罪はきっと、自分にもある。被害者であり、同時に自分は加害者と成り果てた。
何もない青空。全てが終わった幼いあの日に見上げたそうに美しい空。涙に染まらずに見つめた空は、それでもキラキラと輝き泣き出しそうに歪んでいた。
廃墟の中、過去の日を思う。壊れてはいない、自分の記憶を。
…………あの馬鹿な新人が、ただ話し合いをする為だけに壊した柱の数々を見つめて考え続けた。
話し合いの場など設けずにその場でイノセンスを掴み出せば、あの人形はAKUMAに壊されはしなかっただろう。
それでもあの無力でしかなかった少年は幾度でも自分に立ちはだかり、犠牲には自分がなると高らかに歌う。
馬鹿だ愚かだ早死にする。幾度も言い、幾度も喧嘩した。
……喧嘩した。真っ向から、感情をぶつけあって。
砂しかない廃墟の中、降り積もるのはそんな馬鹿な思い出。過去しか見出ださない自分の中の、自分の、思い出。
砂の中に残る蓮の花。腕の中の動かない大切な親友。
彼が呟いた、残酷な少年の運命。自分がその種を芽生えさせた、酷薄なこの世界の事実。
……その中、あの甘い少年が何を見出だすのだろうか。
思ったなら、あのまま朽ちるつもりだった蓮の世界に、赤い花が咲いた。
真っ白な身体に咲いた赤い蓮。
聖職者(クラージマン)の血を吸い咲いた赤い華。
自分が種を撒いた。芽吹かせた。……教団を許す事も受け入れる事も到底出来ない。が、自分もまた、この腕で一人、自由を奪い光を奪った事を思い出した。
ならば自分は、それを見定め行く末を見つめる義務がある。覚悟を持たなくてはいけない。
そっと落とした瞼。覚悟は、した。その為にここに帰ってきた。それを告げる為、布を手繰りベッドに近付く。
泣き濡れたアジア支部長。……囁かれる、ベッドの老人の名。
その腕が大切に抱き締め、何にも譲らずに共に逝こうとするかのように虚空を見つめる様を、見下ろした。
その嗄れた唇が語る現実。過去の事実。あるいは現在の事実。………年寄りは厄介だ。何もかもを背負って、何もかもを己で清算し、今を生きる世代を匿いたがる。
けれどそれでは何も終わらない。始まりはそこにあろうと、終わりを導くのは、今を生きる自分達だ。
……………覚悟がいる。その為に必要な力がある。
思い、死を見据え懺悔する老人を見つめる。彼が手にかけた全てのように、自分は……いつか、あの赤い花を宿らせた白い少年をこの手で刈り取る運命かもしれない。
自分が植えた種。咲かせた花。………目覚めさせた、ノア。
もしもそれがあの花の祈りに反し世界に牙を剥けるならば、自分は躊躇わずにこの手を差し出す。掴む為か刈る為か、それはその瞬間まで解りはしない。………が、その為にこの自分を呼ぶ懐かしい声に応える事を決めた。
未来を見据える事を決めた。その行く末を見つめる事を決めた。その為に必要な力がある。……AKUMAをノアを伯爵を打ち崩し、滅ぼす力。
零れる老人の涙にそっと睫毛を伏せ、見える筈のない暗闇の未来を見つめる。そこに咲く、鮮やかな白い花。
それを教えるようにそっと、シワだらけの細い手のひらに、腕を重ねた。
咲き誇る美しい花。常しえに変わらぬ美しい花。…………神聖と沈着を象徴する、変わらぬ愛の花。
泥に生まれ泥に育ち、それでも泥に塗れる事なく咲き誇る、それは希望の花。
そこに自分が自分の為に、命を削り思いを遂げ悔やむ事なく生きる為の道を与えてくれた、あの少年に加えた痛みを見つめる。それはあるいは、この老人と同じ色を宿すかもしれない。
……けれど贖罪ではなく、よりよきものを見出ださんが為に戦い、生きる事を選びたい。
それこそがあなたの願いだったのだろうと、過ちに気付き、それでも全てを壊し無かった事に出来なかった老人の、どうしようもない哀惜と憐憫と…慈しみに笑んだ。
幻の筈の至上の花。分かち合った幻覚。
その艶やかさを愛で、微笑んだ。………これは絶望の象徴ではない。そう、教えるように。
「じゃあ、あんたも地獄行きだな」
そうして、囁く。この先の全てを背負うのは自分達だと教えるように。過去に生きる事を止め、未来を歩む事を定めたと教えるように。
全ては終わり、そうして自分は今一度始める事を決めた。過去の名など知らない。壊れた記憶も無関係に。………自分が自分として生きたその土台のもと、見据えるものを定めた。
囁きに花が咲いた。舞い落ちる花弁。老人を包み、抱き締める不可視の花。
鮮やかな美しい白い華。それに囲まれ、老人は驚いたように…けれど懐かしそうに笑み、頷いた。
彼が何を見出だしたか、知らない。
他の誰も自分が廃墟の砂に見出だしたものが何であるか、解らぬように。
……それでもそれは、華だ。
鮮やかに咲き誇り生きる標となり、時に刈らなければならない鮮やかな華。
その華の咲き誇る様を思い、この世にただひとつの自分の半身たるイノセンスに囁きかけた。
覚悟に応えるかのように、それは輝く。
始まりの、産声のように………………………

PR