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具合悪かったんで特に突っ込む事もなく粛々と聞いていましたが。
宗教一家に生まれた方々がどうなのかは置いておくとして、多分私は一生無宗教ですよ。強制させられる信心に心なんぞ籠らんと思うから、例えまかり間違ってどっかに属したとしてもやっぱり無宗教だと思う。
いい事があっても悪い事があっても、それは自分や周囲の方々との関わり上の出来事で、自分が選んで進んだ結果なのだと思うし。
だからこそ、私は宗教理念や教えに基づいた価値基準ではなく、自分自身が信じて選んだ良心と良識のもと、物事を判断して選びたいし。
それで起きたリスクも、それは自分自身の責として背負うものだと思うし。
理不尽はある世の中だから、それを真っ向から見つめると泣きわめきたくなるだろうけど。同じように優しくって愛おしいと思うものもある筈だから、それを手に出来ればいい。
両親だとか神様だとか、そういうものに全てを委ねるんじゃなくて、そこから学んだ全てを、自分で咀嚼して自分で答えをださなきゃ、私は私じゃなくなりそうだ。
宗教が悪いんじゃなく、私の心には沿うモノじゃないんだよなー。
私は決して強くも優しくもないから、縋っていいものがあれば全力でそれに寄りかかって甘えたくなっちゃう。でもそれをすると、悪い事全部目を瞑って、都合良く解釈して、身勝手さが増長すると思う。少なくとも私は、ね。
それは私が理想とする生き方からはかなり逸脱しているから、神様に縋れないし、親に自分の行動の責任を求められない。
多分私は宗教とかに嵌まってしまえば、本当に頭っからどっぷりいっちゃうと思う(苦笑)自分以外の何かのために、自分が出来る精一杯をするっていうのは、理想といえば理想なんだ。前提というか、対象というか、そういうものが違うだけでね。
自分の行動の源が、何かに寄って支えられているのは楽だし、それが自分の人生を守ってくれるのは心地いいだろうけど。
自分の足で立って、自分の目で見て、自分の意志で決められる、そういう生き方が誰もが当たり前に出来るといいな。
宗教の良し悪しでも、信心の在り方でもなくて、それが無くなったとしても尚、自分が自分でいられるだけの心があるといい。
全てを丸投げにしてのめり込むのは、素晴らしい事だという自己犠牲のマインドコントロールだと思うし。
他宗教を認められなかったり、選民思考があったり。何かを貶めて自分を優位にするのなら、宗教を素地としていなくても私は嫌だな。
違う事が正しいし、それを受け入れ合えるから喜びが生まれる。それだけの単純な話を忘れずに生きたいね。
少なくとも、正邪を判ずる良識を教えてくれた事と、違う事を認めて育ててくれた事と、若干の痛みを添えてくれた事は、感謝しよう。
私は優しい人間ではないけれど、そうなりたいと意識して努力しようと思える、そうした人間に育ててくれたのは、親と周囲の人と友達達なんだしね。
私も次の世代の子供達に、そうしたモノを少しでも与えられるといいな。