遠慮がちなノックが響いた。それに気付いた自分に驚きながらも、青年はそれだけで訪問者が誰であるかを理解する。
しかし身体は微動たりとも動かさなかった。同じように、本を見つめる文字を写しとる眼差しもぶれない。
暫くの沈黙のあと、もう一度、ノック。それから、躊躇いながら掛けられる声とともにドアが開かれた。
室内に首を差し入れた少年は、首を巡らせるまでもなく見つけた青年に苦笑した。
今日のランチを一緒に食べようと、午前中の鍛練の時に誘ったのは彼の方だ。もっとも、その時も読書に没頭していたら起こせと言われたけれど。
初めて会った頃からみんなに言われたのだ。本を読み始めたら声を掛ける程度では気付かないから、殴るくらいはしなくてはいけないと。一緒に旅をしている間など、老人がかなりの勢いで蹴りを食らわせるのは日常茶飯事だった。
あれだけの目に遭ってもなお、青年は本から離れられないのだ。それは彼の本職とはまた別の、彼自身の知識欲のせいかもしれない。
思い、少年は肩に乗るゴーレムに苦笑して見せた。案の定、訪ねても気付かない青年の集中力は凄いと思う。が、これではご飯は食べられなかった。
「ラビ?」
まだ時間は早いし、待てないわけではないが、少年は問いかけるように名を呼んだ。が、相手は微動たりともしなかった。
不思議そうに方のゴーレムが身体を傾けた。揺れる羽が頬をくすぐる。それに落とした吐息程の笑みの間も、返事は返されなかった。
「…………」
顔どころか視線も、睫毛も動かない。どうやってその本を読んでいるのか不思議だが、これでも質問すればすらすらと内容を諳じてみせるのだから不可解な話だ。
一度不思議になって問いかけたけれど、文字を読んでいるのではなく文様のようにそれを記録して理解していると言われ、ますます解らなかった。きっと自分とは違う読み方なのだと、そう納得するしか術がない。
この状態では、それこそば殴らなくては気付かないだろう。少年はちらりと時計を見て、今度は青年の手元、その本の残りの厚みを見遣る。
残りの厚みは1cm程だ。これならば、自分ならばまだしも、青年ならばあと5分もかからないだろう。眺めている間にも、指先はページを捲っていくのだ。信じがたい読書のスピードだが、これでもまだ老人には到底適わないとむくれた青年を思い出す。
思い出したその顔の幼さにくすりと笑い、少年は仕方なしに室内に入り込んで青年に近付いた。
足音はわざと殺さなかった。けれどその程度で相手が気付かない事くらいは解っていた。むしろ気付いたら逆に体調が悪いのではないかと不安を覚える気がする。そんな自分の考えに少年はすっかり青年のこの悪癖に慣れている自分がおかしてく笑ってしまった。
「ラビ?……聞こえてますか?」
もう一度、今度のそれは少しだけ強い音になった。肩の上でゴーレムも羽や尻尾を動かして青年を呼んでいる。
それにも反応せず、青年は黙々とただ本を眺める。……いつも通りの光景だ。それに少し安堵するように少年が肩を竦め、それによって揺れた肩からゴーレムが飛び立ち、少年の頭に避難した。
そんな些細な動きすら読み取れて、何一つ動かさない静止画像のままの青年は胸中でこっそりと笑ってしまった。本当に見ていて飽きないコンビだ。
思い、その笑みは苦笑と自嘲に取って代わられた。初めの頃はまるで解らなかった少年の気配は、今はこうして本に没頭していても解るようになってしまった。
その意味を考えて、小さく呼気を落とすようにしてページを捲る。
………聞こえているよ、と。告げずにいるようになってから、どれくらい経つだろうか。出会ってからそう長い時間はかからなかった。
本を読み始めると、身に危険が迫らない限りは意識が戻らない。それはいままでずっと変わらなかった。
それなのに、いつの頃からか、この声にだけは反応して、気付いてしまうようになった。
その意味に気付かないふりを出来る筈もない。あまりにあからさますぎる。
だからずっと、気付かないふりをし続けた。初めは、バレない為に。この物思いは、少年に与えるべきものではないだろう。解っているから、告げる意味のない思いは初めから黙殺した方がいいに決まっている。
それなのに、と、青年は落としかけた溜め息を飲み込むように、微かに歯を噛み締めた。唇すら動かさなかったのだから、少年は気付かなかっただろう。
………今は、それにもうひとつ、理由が加わってしまった。
そちらの方があるいは浅ましいかもしれない。そんな事を思う性で、ページを捲る均一の感覚が崩れてしまう。が、多分少年には解らないだろう。ほんの数秒の差だ。
同時に、小さな吐息と音色が、すぐ近くで落ちた。指先が跳ねなかった事は自分でも褒めるべきだろう。
「……ダメか、まあ仕方ないや」
軽い溜め息と共に少年の気配が遠退く。どうやら諦めてしまったらしい。
これ以上騒ぐのは迷惑と判断したのだろう少年は、困ったように辺りを見回していた。
そうして、クスリと仕方無さそうな柔らかな笑みが漏れる。
「早く読み終わってくださいね」
いつもより少しだけ気安い声が呟いて、立ち上がったのか、声が遠くなる。
「ね、ティム。全然聞こえてないんだから、凄いよね」
近くを飛んで興味津々に辺りの本の山を順番に辿っているゴーレムに声をかければ、緩やかなカーブを描いて少年の元に舞い戻ってきた。
先程と同じく頭の上に止まり、少年同様に本を貪るように読み耽る青年を見つめているようだ。
それを見上げるように僅かに頤を上げ、ゴーレムが落ちないように気を付けながら、少年はふと思い付いた疑問を落とした。
「………触っても解らないのかな?」
ささやかな問いかけは頭上のゴーレムに向けられたものだ。ついそれに答えたくなり、青年は胸中で苦笑した。
彼はこんな風に、ゴーレムと二人だと幼い声や仕草を落とす。多分、他の誰も知らない、本に集中している青年の傍らでだけ落とされる年相応の姿だ。
何やらゴーレムは得意のジェスチャーを使って少年に答えているらしい。
それが面白かったのか、小さく少年は吹き出している。どんな顔をして笑っているのか、顔を動かすわけにはいかない青年には解らない。それが、時折ひどくもどかしい。
すぐ傍で、いつもは見れる筈のない少年がいて、それがたとえ意識を向けられていないとはいえ、自分の傍で落とされるなら、もしかしたら見られてもいいと思っているのかもしれない、なんて。………あまりに都合のいい解釈だと、解ってはいるけれど。
「はは、うん、どうかな。……邪魔って怒られるかも?」
葛藤に悩んでいた青年の耳に聞こえたのは、そんな含み笑う悪戯好きな少年の声。……一体ゴーレムが何を訴えていたのか、非常に気になるところだ。
なかなか突拍子のない真似をする感情豊かなこのゴーレムは、他の通信専用のゴーレムに比べて、格段に人間臭い。
だからこそ悪戯を仕掛ける事もあるのだと、ほんの微か、青年は緊張した。
「うん?あ、こら、ティムッ」
同時に、少年が潜めていた声を少し鋭くしてゴーレムを呼んだ。それに身体が跳ね上がらなかった事を誰かに誉めてほしいくらいだと、こっそり青年は思った。
数秒の間のあと、ふわり、髪に触れた羽の感触。ゴーレムなのに、それはまるで生き物のような弾力とぬくもりを感じる。そうしてそのまま、まるで巣穴に戻った鳥のようにちゃっかりと、人の頭に止まった機嫌よく鳴く声が聞こえた。
それに苦笑しそうで、押さえ込むように青年はページを捲る指先に集中した。
確かに、きっと普段ならば、この低をのこと、されても気付かないだろう。悪意はまるでない、ただ寄り添うだけの気配になど、意識は侵害されない。
「………あれ?気付いてない?」
少し驚いて少年が呟けば、ニヤリとゴーレムが笑った。
そうして金の羽をパタパタと器用に動かして、こちらにおいでと誘ってくる。
「えっ!?僕も?」
きっとそれでも気付かないと、悪戯好きのゴーレムは、意識を戻したときにこの青年を驚かせたいようだ。いつもいつも少年と二人、やってきては少しの時間とはいえ待たされるのだから、それくらいの悪戯は許される筈だと、胸を張るようにしてゴーレムは笑っている。
真面目に無表情なまま本を手繰り続ける青年と、からかうように羽を動かし少年を呼ぶゴーレムはミスマッチで滑稽だ。それに噴出しそうになりながら、少年は室内を見回した。
確かに、青年は本の山に埋もれてはいるが、周囲には狭いながらもスペースはある。
そうしておかなければ止まる事なく読み続けてしまうと戯ていた事は、多分……本当なのだ。
そんな事を思い出しながら、いまだ誘う金の羽を見つめ、少年は困ったように視線を落としていってしまう。いつもなら悩みもしないで首を振る。そんな馴れ馴れしい真似、出来る筈がない。
そんな真似をしてほんの僅かでも嫌悪や気味の悪さをその目に浮かべられたら。………考えただけでこのまま取って返して自室に閉じ篭っていたくなる。
でも、今は。……青年は気付かないし、気付いたあとも、これだけ近くに来ても気付かなかったと、からかう言葉で誤魔化せる。きっと青年は驚いた顔をして、照れくさそうに頭を掻いて、自分の不覚に舌を出して戯てみせるだろう。
だから、今なら、大丈夫……なのかもしれない。
「え、えー、えーっ…と…………」
そんな微かな考えに、少年は目を瞬かせながら顔を赤らめてしまう。いつから自分はこんな風に、まるで許される事を前提にするような意識で人の傍にいられるようになったのだろう。
小さく小さく唸りながら、楽しげなゴーレムと揺れもしない青年の赤毛を窺うように視線だけで見上げた。
ホームにいる人達はあまりに優しくてあたたかくて、捧げ尽くして摩滅するだけに生きる自分にすら、生きる喜びを教えようとする。多分、人に触れたいとか、傍にいたいとか、そんな事を思うのは、誰か他者とともに生きたいと、そう願う事の始まりだ。
思い、少年は沈黙の中、俯いていく。暫くの、逡巡。……そうして顔を上げた少年は腕を伸ばし、ゴーレムに声を掛けた。
「ティム、おいで」
静かな、いつもと同じ少年の音色が響く。もしかしたらこの傍ら、自分から足を運び居座ってくれるかと、ゴーレムの気紛れに感謝していたけれど。
……これは逃げられるかと青年がこっそり残念に思っていれば、不意に動いた気配。
傍らに止まった足音。また、僅かな間。頭の上から消えたゴーレムの羽の尻尾が、揺れるようにして肩に触れた。
そうして響いた衣擦れの音が、背中に留まった。
「…………………」
正直、驚きを飲み込む事に必死で、目に写した文字が形にならなかった。
丸まるようにゴーレムを抱き締めているのか、ほんの僅か触れ合うだけの背中。
………落とされる呼気が、微かに乱れて聞こえるのは、きっと戸惑いと緊張からだ。
まだまだ仲間とすら触れ合う事に慣れていない少年の仕草に、気付かないふりをして、青年は落とした溜め息とともにページを捲った。
「やっぱなんか、照れ臭いな。お前みたいだったら、もっといっぱい甘えられるのかな?」
響くのは、密やかな甘い声。きっとこのゴーレムだけが記録し続けた、少年の年相応の音。
それを、間接的とはいえ、こんな風に間近で聞けるなんて。指先が震えそうで、青年は心音をうまく調節しなくてはいけなくなる。
……沸きあがる喜びと、未だ自分には向けられていない寂しさに、胸が苦しく締め付けられて、鼓動など疾うに狂っている事に、今更気付いた。
「うん?はは、いいんだよ。これくらいで、十分」
不意に背中のぬくもりが揺れる。やわらかく頷くようなその振動は、あたたかくて優しい音色を紡いだ。
これ以上なんて、贅沢だ。……これだけだって、不相応なほどに幸せなのに。
そんなに沢山を望んではいけない。この腕に抱えられるものは数少なくて、甘えたがりの自分はきっと、優しい腕を見出したらそれに擦り寄るに決まっている。そんなこと、迷惑以外のなにものでもないと、解っている筈なのに。
ジェスチャーしか返していないゴーレムに、それでも少年はやわらかく答え、楽しそうに瞳を細めて笑っていた。
「お前もいるしね、ティム」
ずっと、独りぼっちにならないように寄り添ってくれたゴーレム。師匠と出会ってからずっと、この肩、頭の上、腕の中、いてくれた。それが甘える事に臆病だった自分をどれほど慰めてくれただろう。
感謝するように、ふわり、少年は金の羽を撫でて、上機嫌に膝の上、跳ねてすりよるゴーレムの、つるりと丸い頬らしき部位に、子供に与えるような口吻けを落とす。
やはり嬉しそうに羽を羽ばたかせ、返礼のように頬を押し付け甘えるゴーレムを撫でながら、ぽつり、少年は声を落とした。
「早くラビも本、読み終わるといいな」
クスクスと楽しそうにゴーレムをつついているのだろう、微かな腕の振動。それを感じながら、こっそりと青年は気付かれないようにつめていた息を吐き出した。
………どうせなら、自分こそがそのゴーレムになりたい。
少年の全てを見つめ傍らにいる事を許されて。……いとけない声、全て与えられる、今はきっとただひとつの存在。
………羨ましいな、なんて。
こんなちっぽけなゴーレム相手に持つ悋気に、小さく笑う。
手の中の本はあともう少し。
読み終えたら、驚いたふりをして、少年に甘えかかろう。
甘える事が下手な君に、少しでも伝わるといい。
ただ傍にいて寄りかかる。
それだけでも心暖まる事を。
………甘えられる事にこんなにも喜ぶ心とともに、伝わるといい。

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